鹿児島の旅 その3 ~ 桜島 ~

鹿児島の旅の最終日、目指すは桜島。まずはホテルの朝食バイキングで朝ごはんをしっかりいただく。実はこのホテルの朝食バイキングには奄美の郷土料理の鶏飯と鹿児島名物黒豚カレーがあって、このホテルを予約したのもそれが理由の一つだった。特に鶏飯は初めて食べたが、蒸した鶏肉、干ししいたけ、錦糸卵といった具と少し甘みを帯びただしが上手くマッチしていてさっぱりとした味わいになっている。一度食べたら病みつきになるくらいの美味しさでした。

さて午前中は見残していた維新ふるさと館からスタート。幕末の薩摩と明治維新の全てが分かる施設になっている。映像も豊富にあって十分に見切れなかったのが少しばかり心残りとなった。西郷さんの軍服と大久保利通のコートがあったがどちらも大きくてごいさんにはぶかぶかだった。ちなみに西郷さんは178cm、108kg、大久保利通は183cm。一般的に薩摩の人たちは大きかったようだ。

西郷さんの生誕の地を眺めていると観光ボランティアのガイドさんが寄ってきていろいろ説明してくれた。そして加治屋町巡りにお付き合いしてくれ、いろいろと解説してくれた。ガイドさんの話は説明の文章を読むよりもはるかに分かりやすい。ありがたいことだと思う。でも今日のごいさんは時間がないのが残念。フェリー乗り場までの道順を聞いてお別れした。

フェリー乗り場の近くまで来たら、その前にある水族館でちょうど無料公開のイルカのショーが始まるところだった。これはラッキーとばかりにたくさんの親子連れに交じって見物することにした。ショーそのものはわずか10分と短かったけどとっても得をした気分。

桜島まではフェリーで10分ほどで、出港したかと思ったら桜島がぐんぐんと近づいてきた。ご存知の通り桜島は活火山で、今年は今までに5回、昨年は22回ほど爆発したという。今日は何も起きませんようにと心の中で祈る。観光案内所でバスの一日券を購入、桜島周遊バス「サクラジマアイランドビュー」を利用して主要観光スポットを巡ることにした。烏島展望所に向かう道路の両側は桜が満開で美しい。長渕剛のオールナイトコンサートの跡地に整備された「叫びの肖像」もユニークだ。そして最高地点である「湯之平展望所」から改めて桜島を眺める。ごつごつとした岩肌が桜島の強さを象徴していそう。最後にマグマ温泉に浸かってちょっぴりリラックス。桜島、約3時間の滞在だった。

帰りは天文館でお土産を購入。お目当てはかるかん饅頭とさつま揚げ。さつま揚げが思いの他にいい値段で、ちょっと予算オーバー。いつもはスーパーで安いのしか買わないからね。本場のかるかん饅頭は美味しかった。いくつ買えばいいのかなあ、誰にあげようかなあ…なんて考えるのが楽しいんだよね。もちろんお財布とにらめっこしながらだけど。

いつものように最終の便で帰途に就く。追い風に乗って1時間ほどで羽田空港に無事到着した。

 

かすみがうらマラソン2022

鹿児島の旅その3を書く前に、17日の日曜日に行われたかすみがうらマラソンの報告をしたいと思います。

自分にとっては2020年1月に行われた勝田マラソン以来2年3か月ぶりのフルマラソンとなる。昨年12月にエントリーした後で膝のトラブルを再び発症。ドクターからは1月上旬までランニング禁止を言い渡された。それでもこの大会が頭にあったから週に2回ほどのジョギングをこっそり続けていた。そして1月9日に行われたハイテクハーフマラソンに出場。タイムは2時間をほんの少し切ったぐらいだったがもう最後は抜かれっぱなし。これが現実かと思うと本当に情けなかった。

この後ドクターからは再度の厳重注意。3月の三浦マラソンも中止になったことで2月中はランニングは自重することにした。かすみがうらマラソンもコロナの再拡大で中止になるのではと思った。いや中止になってくれないかと願った。しかし一向に中止になる気配はなく、そのうち東京マラソンが行われて、さすがの弱気の自分も練習を再開せざるを得なくなった。

しかし膝の方はまだ本調子ではない。ただ何もしないで棄権するのも嫌だった。とにかく完走を目標に走ってみよう。今走らないとフルマラソンは二度と走れなくなるような気がした。大会の一週間前にロングランを強行する。4時間で33キロ走れたことで本番の雰囲気を考えるとどうにか5時間あたりが見えてきた。となれば最後は歩いても6時間以内にはゴールできるという確信を持つことができた。

当日は、ごいさんはCブロックで第3ウェーヴ、9時55分のスタート。もう何度も走っているフルマラソンなのに今日は初めてのようなかなりの緊張を覚えていた。もうコースを熟知しているかすみがうらマラソンとは言え、自分の練習量を考えれば決して無理はできない。過去の栄光だけで走れるものじゃない。プランとして、ハーフまでをキロ6分30秒、30キロまでをキロ7分、それ以降を7分30秒と考えた。これで5時間は切れるはず。

さて実際に走り出してみると予想外に足取りは軽かった。沿道の応援も嬉しい。やっぱりいいもんだなあと思う。応援されるたびについついスピードが上がる。つくづく自分はお調子もんだと思ったりする。タイムの方は最初の5キロが29分03秒、次の5キロが28分02秒。そして15キロ地点までの5キロが28分23秒で次が28分52秒。そしてハーフの地点を2時間0分44秒で通過する。残りをキロ9分で行っても5時間切りが見えてきてほっとする。

かすみがうらマラソンは平坦な道のりが続くここからがきついのは皆さん承知の通りだ。今までに何度挫折感を味わったことだろう。当然今回もタイムは落ちていくのだが、それでもいつもと比べてそんなにひどくはない。25キロまでの5キロは29分24秒、次が30分13秒。プランではキロ7分だったから大いに頑張っている。そして30キロからの5キロが32分44秒。40キロまでを34分24秒で凌ぐ。

さすがに苦しい。止まったり歩いたりする時間が増えてくる。そんなごいさんを応援してくれるのは本当に嬉しい。ここに来てようやく緊張感が取れ嬉しさが込みあげてくる。最後はその応援に応えながら力を振り絞る。そしてフィニッシュ。タイムは4時間15分35秒。順位は3050/7235。満足過ぎるほどの大満足。ここから4時間切りを再び目指すのはかなり厳しいだろうけれどもう少し頑張ってみようという気持ちになった。

最後になりましたが、たくさんのボランティアの人たちにはただただ感謝しかありません。本当にありがとうございました。大会関係者の皆さんも困難な状況の中で開催していただきありがとうございました。そして沿道で応援してくれた皆さんも本当に本当にありがとうございました。思い出に残る素晴らしい大会でした。

 

鹿児島の旅 その2 ~ 知覧と万世 ~

さて2日目は今回の旅のメインである知覧特攻平和会館と万世特攻平和祈念館を訪ねる。朝9時にレンタカーを借りる。旅先での車の運転は勝手が分からずあまりしたくないのだが、今日訪れる所はなにぶん交通が不便。電車やバスで移動するのは好きなのだけどその本数が少ない。上手く計画を立ててもその乗り換えなどでかなりの時間をとられてしまう。ということで安全第一を前提にレンタカーを借りることにした。

最初に向かったのは知覧特攻平和会館アメリカ艦隊への体当たり攻撃に向けて多くの若者がここから出撃した。しかしそのほとんどはそこまで辿り着けなかったり砲撃で落とされてしまう。飛行機そのものも練習機のようなものまで使用していたという。20歳前後の若者たちだった。会館には彼ら1,036人の遺影の写真とともにたくさんの手紙が展示されている。両親、兄弟、そして愛しい恋人。どの手紙も最後はその人たちのこれからの幸せを願う言葉で締めくくられている。産んでくれた恩、育ててくれた恩に報いることをしてこなかった自分を責め、艦隊を撃沈することで恩を返そうと決意する。20歳前後の輝けるはずだった400を超える若者の命がこの知覧の基地から飛び立っていった。

知覧特攻平和会館【特攻勇士の像】【三角兵舎】出撃直前の特攻隊員たちが寝泊まりした場所。

【富屋食堂】女将の鳥濱トメさんは「特攻の母」と呼ばれた。

 

つづいて万世にある平和祈念館に向かう。ごいさんが中に入ろうとした時、お年を召したご夫婦が出てこられたが、中に入ってみると他には誰もいなかった。場所がだいぶ離れていて知覧ほどには知られていないのだと思う。中の展示ほとんど知覧と同様の形式だったが、なにぶんごいさん一人だから誰はばかることなくじっくりと館内を見て回ることができた。知覧でもそうだったがどの手紙も実に美しい文字でそしてしっかりとした文章で書かれている。それを見ただけで彼らがその後の活躍を十分期待される若者たちであったことが容易に想像できた。

【万世特攻平和祈念館】

小さい頃に何度かこの神風特攻隊や人間魚雷などの映画を見ては、自分はこういう死に方はしたくない、だから戦争は絶対に起こってほしくないとずっと願ってきた。今こうして知覧と万世を訪ねてみて改めて彼らの気持ちを思いやる。彼らの後世の人々に託した願いは通じたのか。その後の日本は、77年もの間平和に生きてこられた。それが彼らの死に対するせめてもの救いのような気がする。そしてこれからも平和な日本であってほしいと願ったのだ。

さて今回の旅の目的を達成しての帰り道、ちょこっとドライブ。まずは本坊酒造のウィスキー工場見学。近いうちに伊豆に住む吞兵衛友達と呑もうと思い、ここでしか買えない芋焼酎を一本購入した。えっ、ウィスキーじゃないのって。そう、本坊酒造はもともとは焼酎で有名なのだ。

そして開聞岳をパチリ。50年ぶりのご対面と相成った。当然だけどまったく変化なしでした。

それから最南端の駅西大山駅へ。初めて来ました。黄色い郵便ポストも可愛い。

178キロに及ぶ長いドライブ(ごいさんにしては)も午後の5時少し過ぎに車を返して無事に終了。夕食は黒豚トンカツをつまみに芋焼酎を何杯か。程よく酔いました。

 

鹿児島の旅 その1 ~ 西郷さん ~

3月31日(木)から4月2日(土)にかけて鹿児島に行ってきました。いつもならマラソン大会のついでにという旅行なのだけど今回はマラソンはなし。実はJALのマイルポイントの有効期限が切れるというのでJALの「どこでもマイル」というのを利用することに。これはこちらで選んだ任意の4つの候補地のどれかに行けるというもの。4つの候補地に選んだのは、松山、広島、高松、そして鹿児島。松山はもちろん道後温泉にどっぷり浸かって坊ちゃん気分を味わうこと。広島は原爆ドームと宮島。しまなみ海道のこともちょっと考えた。高松では讃岐うどんを食べてそれから小豆島…かな。鹿児島は高校の修学旅行で行った。50年ぶりにもう一度訪ねてみるのもいいかと考えた。それと西郷さんにも会いたい。とそんなことを思っていたら早速にJALから返事が来て行先は鹿児島と決まった。

飛行機に乗るのは実に久しぶり。前日辺りから少し緊張気味だ。もう何度も乗っているけど不安感は消えない。今回はマラソンなしの旅行だから荷物はリュックサック1つと軽装だ。機内は三分の二くらいの乗客数だろうか。10時ちょうどに羽田を離陸して鹿児島空港には11時50分に到着した。リムジンバスでまずは鹿児島一の繁華街、天文館に向かう。たくさんのお店があって興味は尽きない。あちらこちらをきょろきょろしながら中央公園で昼食を取る。今日の昼食は自分で作ったおにぎり。家から持ってきた。これがなかなか美味しい…と自画自賛

さてお腹が満たされたところで、まずは西郷さんに挨拶。軍服を着た西郷さんは、上野の西郷さんとはちょっと雰囲気が違うね。続いて城山に上るのだがこれがちょっときつかった。もう汗だく。でも頂上から桜島を見た時、一瞬気持ちは西郷どん…?この頂上にあるドン広場は西南戦争薩軍の本営が置かれていた場所とのこと。それからしばらく下っていくと西郷さんが最後の5日間を過ごしたという洞窟がある。そこから500メートルほど道なりに行ったところが西郷さんの終焉の地だ。満49歳。そして鶴丸城(鹿児島城の別名)。大学の時に鶴丸高校出身の友人がいたのでその名前だけは記憶していた。お城の石垣にはたくさんの銃弾の跡が残っていて、西南戦争の激戦の様子を伝えている。
その頃になって雨がぽつりぽつりと落ちだしてきた。西郷さんにもう一度挨拶して宿に向かうことにした。宿についてすぐに本降りの雨となった。

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ウクライナ危機

前回の記事で冬季オリンピックでは世界の国から人々が集まってみんなが地球人になったかのようと書いたばかりなのに。そのすぐ後に始まったロシアのウクライナ侵攻。世界の国々の制止をも振り切っての決行。プーチンはその理由をいろいろとあげているが、どうみても一方的なものとしか思えない。何よりも武力侵攻そのものが許されるものではない。周りの国が手を出さないことをいいことに我が物顔で侵攻を続けるロシア軍。

それに懸命に立ち向かうウクライナ軍やウクライナの人々たち。どうみても勝てる戦ではない。世界の国々も経済制裁等でダメージを与えようとしているが、プーチンは核使用もチラつかせながら一歩も引こうとしない。ロシア国内でもかなりの数のデモが行われていると報じられているが、それにしてもまだまだプーチンの支持率は高いという。そんな彼らに与えられている情報はかなり制限されたもので正確ではないとも聞く。

今のプーチンは正に独裁者としか思えない。先日のテレビで流された映像ではプーチンに対して誰も意見を言えなかった。もし逆らえばその先はどうなるか、おおよその見当はつく。常識的に考えれば世界中を敵に回してのこの行動がロシアにとって決して得にならないであろうことは誰にでも明白。それにウクライナとは同じ民族の兄弟国で、それぞれの国にまたがって家族や親戚、知り合いの繋がりも深いという。

ベラルーシでの停戦交渉は難航し、ロシア軍のウクライナの首都キエフへの攻撃が激化しそうだという。なんとか破滅的な状態になる前にこの戦争が終わってくれることを願うばかりだ。時々テレビの映像で流される子供たちの涙しながら「死にたくない。早く戦争が終わってほしい」という声を聞くのが本当につらい。今や世界中の人がウクライナの人々の無事を祈っている。そしてロシアの多くの人々にその心にSNSなどを通して世界中からの声が届くことを期待したい。

今回のロシアのウクライナ侵攻には自分の人生において初めてと言えるほどの大きな恐怖を覚えた。たった一人の指導者がこれだけのことを難なくやってしまう。正に第二次世界大戦を思い出させるものだ。あれから70年余りが過ぎて科学技術は急速に進歩して我々の生活はとても豊かなものになった。なのに…、人間はまったく進歩していないという現実。当然と言えば当然なんだろうか。なんだかとても空しく寂しくそして悲しい。

 

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北京冬季オリンピック、母の誕生日

4日から始まった北京冬季オリンピックも昨日20日で幕を閉じた。ごいさんも多くの時間をテレビの前で費やした。なんだかんだあっても、やっぱりオリンピックっていいなと思った。勝っても負けてもお互いの健闘を称えあうというシーンは本当に素晴らしい。きっとスポーツをしている子たちの心にも大きな影響を与えるはずだ。そうして何よりも世界中から多くの選手が一堂に集まって競技ができるのが素晴らしい。短い期間だけど正にみんなが地球人だった。

東京オリンピックではコロナ禍での自国開催ということもあって素直に楽しめなかった。もちろん選手たちは一生懸命だったしたくさんの感動を与えてくれたのだけど、それと同じくらいいやそれ以上に払った代償も大きかった。でも今こうして北京でのオリンピックを見ていると、その国のコロナのことなどすっかり忘れている。つくづく矛盾していると思うけど、東京オリンピックも海外の人から見ればそうだったのだろう。やっぱり自分の国のことは自分たち自身がちゃんと分かっていなきゃいけない…んだね。

さて話は変わって、昨日は母の92回目の誕生日だった。ごいさんは先週の木曜日にいつものようにまあるいケーキを買って一足早くお祝いをしてきた。プレゼントはこれまたいつものようにスーパーオオゼキの商品券。品物は何を買ってあげてもそんなに喜ばないし、お金をあげれば使わないでしまっちゃう。さすがに商品券は使うしかないようで、時々それで好きなものを買っているみたいだ。商品券をあげるのは誕生日、母の日、お中元、敬老の日、お歳暮、お年玉の年6回。今では、母もそれなりに楽しみにしているようだ。

さすがに元気だった母も年を取ってきた。今年の介護認定の関係でディサービスも週二回だったのが一回になってますます行動範囲が狭まってしまった。せっかくできた友達とも会えなくなってしまったみたい。本人は強がっているけれどふつうは寂しいんじゃないかな。おしゃべり好きの母だから毎日のように一人で家にいるのはどうなんだろうと思ってしまう。帰る頃に「95歳まで生きるのが目標だよ」と言ってくれた。ここのところ「もういつ死んでもいい」と言うばかりだったから、それを聞いて少し嬉しく思ったよ。

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父の夢

先日、父の月命日だったか、久しぶりに父の夢を見た。いや、見たと言えるのかな。覚えているのは父と一緒に車に乗っている一枚の写真のような光景だけなのだ。父と二人でカメラの方に顔を向けて微笑んでいる。いつもなら見た夢はすぐに忘れて記憶に残らないのだけど、この時は忘れちゃいけないと思って目が覚めた。夢にストーリーがあったかどうかはまるっきり思い出せないけど、この一枚の写真のような光景だけが唯一記憶に残った。

父は亡くなった時のままの父だったが、どうしてだか自分もその頃の若い時の自分だった。父が車を手に入れたのは亡くなる1年前ぐらいだったから、実際に父の車に乗ったのは一度しかない。妹が結婚するというので家族で一泊の思い出旅行をした時だ。箱根あたりを回った記憶がある。でもきっとその時のごいさんに笑顔はなかったしこんな写真も撮らなかった。

父が亡くなって何年かはよく夢に見た。たいがい父がただいまと言って家に帰ってくるシーンだ。父は生きている、それが現実だと思って喜んだ。そしてお帰りと言った瞬間に目が覚めて現実の世界に戻される。何度も何度も同じ夢を繰り返し見た。それでもその後の40年余り父が夢に現れることはなかった。現れたのかもしれないが記憶に残ることはなかった。今回のすごく鮮明な一枚の写真の様な光景。二人とも満面の笑みを浮かべている。でももう昔のように父が生きているとは思わなかった。

それにしても今頃になって父はどうして現れたんだろう。そんなこと考えたってなんなんだいと思ったけど、ちょっと考えてみた。そしてまず思ったのは、ごいさんを迎えに来たんじゃないかということ。だから父は当時の愛車でやって来た。そろそろごいさんもいいお年頃だしね。それとも、このところの情けないごいさんを見るに見かねて発破をかけにやってきたのかしら。何か伝えたいことがあったかな。

まだ父さんが迎えに来てくれたからと言ってきゃあきゃあ喜んでもいられないんだなあ。母さんのこともあるし、中途半端にやり残していることもある。そういった決心もまだまだついていない。あと10年くらい何とか待ってもらえないかな。今度父さんの夢を見るときは乗せてもらえるようしっかり生きておくからさ。とまあそんなことを実家に行って父にお願いしてきた。

 

f:id:goisan:20220130155155j:plainいつものように本文とは全く関係ないけど、相鉄線の新駅です。