徳島観光 ~ 渦潮と大塚国際美術館 ~

さて徳島観光2日目、いよいよ渦潮とのご対面だ。渦が最もできると言われる満潮の時間に合わせて駅前からバスに乗り込む。ところが乗客の乗降が多いせいなのかなかなか進まなくて、うずしお汽船の船着き場に着いた時は乗る予定をしていた10時半の船が出た直後だった。

ここで30分ほど待って次の11時発の船に乗る。大きな遊覧船より小さな船の方が渦の近くまで行けるというのでそれにしたのだ。目的の場所あたりに来るとぐるぐると旋回を始める。それを合図にみんなカメラを構えて一斉に写真撮影に入る。どうやらピークは過ぎたみたいで大きな渦は見られなかったが、小さいのでも見られただけ良しとしよう。

f:id:goisan:20170324110902j:plain

f:id:goisan:20170324112053j:plain

f:id:goisan:20170324112143j:plain

f:id:goisan:20170324112720j:plain

次に大鳴門橋の車道の下にある遊歩道「渦の道」を歩く。ところどころ床の一部がガラス張りになっていて下の海の様子が見られるのだが、45mの高さから覗き込むとけっこうな怖さも感じる。さすがにこの時間になると渦はもう見られないが、それでも展望室からの眺望はなかなか素晴らしかった。

f:id:goisan:20170324123000j:plain

f:id:goisan:20170324121641j:plain

続いて近くにある大塚国際美術館に向かう。入場券を買おうと券売機の前で財布を出したところで手の動きが止まった。なんと一人3,240円もするではないか。大したことも調べていなくて見学も1時間ぐらいあれば十分だろうぐらいに考えていたから正直この値段には驚いた。これは逃げるが勝ちなんて思ってふり向いたらすでに後ろには何人もの人が並んでいる。瞬間、ほとんど無意識のうちにチケットを購入していた。

入場したところでちょうど定時のガイドさんの案内に混ざることができた。1フロア1時間の予定で地下3階(環境展示・古代・中世)と地下2階(ルネサンスバロック)の2フロアを2時間かけて見学することになった。これが実に詳しい説明でしかも話し方も上手でとても楽しい時間となった。さすがの芸術音痴の自分でもその歴史や絵の価値が十分に伝わってくる。この美術館にあるのはすべて本物そっくりに作られたレプリカだということで、触るのも写真を撮るのも全くの自由。こういうのも素人には嬉しい。

ではごいさんの気に入ったのをいくつかご紹介。

まずはミケランジェロシスティーナ礼拝堂天井画および壁画。ここではこのような環境展示(古代遺跡や教会などの壁画を環境空間ごとにそのまま再現するという展示方法のこと。)が本当に見事だった。f:id:goisan:20170324150739j:plain

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。この距離感がとてもいい。f:id:goisan:20170324133431j:plain

恋人を描いたという、ラファエロの「ヴェールを被る女性」。f:id:goisan:20170324144627j:plain

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」。修復前(上)と修復後(下)。f:id:goisan:20170324150650j:plain

f:id:goisan:20170324150444j:plain

屋外に作られたモネの『大睡蓮』。周りを囲む池の睡蓮はこれからが見ごろだそうな。f:id:goisan:20170324151922j:plain

やっぱり「モナ・リザ」。f:id:goisan:20170324152301j:plain

ゴヤの「裸のマハ」と「着衣のマハ」。f:id:goisan:20170324152711j:plain

スウェーデンの画家ベリ・リッカードの「北欧の夏の宵」。なぜか惹かれる。f:id:goisan:20170324154511j:plain

そんなこんなで2時間はあっという間に過ぎてしまった。2時間をかけても実際に見たのは半分くらいだという。残りの近代・現代の2フロアを合わせれば、ここで丸一日過ごすのもできそうだと思った。終わってみたら3,240円の入場料、決して高くはない気がしてきた。

 

徳島観光 ~ 市内編 ~

今回は大会当日に帰るという予定だったので大会前の観光ということになった。木曜日に朝一番の飛行機で羽田を発ち、小一時間ほどで徳島阿波おどり空港に到着。連絡バスで徳島駅に出て荷物をホテルに預け、駅前でレンタサイクルを借りて市内見学へと出かける。市内を巡るのはレンタサイクルが一番というのは奈良の時に学んだ。しかもここではアシスト付きで1日の料金がわずかに500円という優れもの。

まずは駅近の徳島中央公園にある徳島城博物館でしっかり徳島の歴史を学んだ後に、徳島城があったという城山に登る。いよいよ徳島に来たぞという気分になってくる。続いて少し離れているが人形浄瑠璃でお馴染みの阿波十郎兵衛屋敷に向かう。ストーリーはよく覚えていないが「ととさまの名は阿波の十郎べえ~。かかさまの名はお弓ともうします~」というセリフは実に鮮明に記憶している。平日だからか見学者は自分とサラリーマンらしき男性の二人。二人しかいなくて丁寧な解説がもったいないくらいだった。2時からは浄瑠璃の上演があるというのだが、時間にゆとりが無く見られなかったのが残念だった。

f:id:goisan:20170323131627j:plain

f:id:goisan:20170323131638j:plain

次に向かったのは徳島市のシンボル「眉山」だ。どの方向から見ても「眉」の形をしているというのがその名の由来らしい。標高は290mだが四国一の夜景のスポットということだ。初めは阿波おどり会館からロープウェイで行こうと考えていたのだが、レンタサイクルの案内には頂上まで自転車で行くコースが描かれてある。いくらアシスト付きでも大変だろうと思ったが、描いてある以上は行けるはずだと考えなおして挑戦することにした。が、ヤッパリ大変なことには違いなかった。甘かったと後悔したが、それでもアシストの威力は強烈だということを思い知った。どうにか小高い一つの山を上りきってしまったのだ。下から見上げる通りに上から眺める景色も爽快だ。眼下には「四国三郎」という異名を持つ吉野川が悠々と流れている。確かに夜景はどんなにか美しいだろうと思う。

f:id:goisan:20170323132928j:plain

f:id:goisan:20170323151239j:plain

阿波おどり会館には実演の始まる時間の10分ほど前に到着。阿波踊りはテレビとかで目にしているけど、こうして目の前で見るのは初めてだ。いつものようにワクワクしている。幕が上がって踊り子さんたちが登場してくる。思った以上に迫力がある。特に男の人は腰を低く据えた状態でよくもまああんなに激しく動けるものだと感心する。女性の立ち姿もすらっとしていて美しい。いよいよ終盤になって、お客さんも一緒に踊りましょうと声がかかる。ごいさんは何のためらいもなく立ち上がったけど。右手右足、左手左足を交互に出す程度の簡単な部分だけだけどこれがなかなか面白い。決して上手くは踊れていないがそれでも十分に楽しい。自分の住んでいる近くで阿波踊り大会をやっているのを思い出し、今年の夏はちょっと行ってみようかなんてことを考えたりしていた。

f:id:goisan:20170323162458j:plain

ということで時間が経つのは早い。阿波おどり会館を出るともう5時を回っていた。まだ見たい所もあるのだけれど今日の見学はこれで終了。移動距離は30キロ余りだった。 

 

奥さん、第九を歌う

昨日新宿のオペラシティで行われた「がん患者さんが歌う春の第九」というコンサートに行ってきた。歌うのは80人のがん患者さんたちと医療者や家族の方たち、総勢145名だ。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。前にも奥さんのことは記事に書いたが、今はがん研究のお手伝いの仕事をしている。その研究会が企画したということで実行委員会のメンバーとして関わりを持ったようだ。裏方の仕事をしているうちに自分も歌ってみたくなったのか。うちの奥さんもごいさんと似たところがあって興味を持ったらやってみないと気が済まないようだから。

練習は去年の6月頃から週に1回のペースで始まった。毎週仕事始めの月曜日だ。仕事を終えてお台場にある職場から新大久保や茗荷谷にある練習会場へと足を運ぶ。練習時間は2時間余りで、家に帰ってくるのはだいたいが10時を回る。ごいさんから見るといかにも疲れそうに思えるのだが、うちの奥さんはこういった好きなことには何の苦もないようだ。それにすぐに何人かのがん患者さんたちとも知り合いになって楽しく過ごせているようで疲れを知ることもほとんどなかったみたい。以前にNHKで取り上げらてこの仲の良い患者さんがインタビューを受けていた時、ちゃっかりその側にいてにこにこしてテレビに映っていた。

ともあれそんなわけでうちの奥さんもそれなりに楽しんで練習に励んできた。時々家で奇声を発していて少しおかしくなったかと思える時もあったが、ドイツ語を覚えようと必死だったみたいだ。一時は平日の夜のリビングはひたすらにドイツ語が流れているそんな状態だった。少し前までなかなか覚えられないと愚痴っていたけど、もう大丈夫だろうか。ごいさんと似ている所があって先のことを考えずに飛び込んでしまって、自分を追い詰めている。なんか自分を見ているように思う時もある。

練習が終わって帰ってくるとたいがいがん患者さんのたくましく生きているという話になる。彼女がそんな患者さんたちから元気をもらっていることがひしひしと伝わってくる。そして今は彼女自身が歌うことを楽しんでいるといったようすだ。お喋りな彼女だから親しい仲間も何人かできたようで、これが終わってからのおつき合いも楽しみにしているようである。

実際なかなか聴きごたえのあるコンサートだった。がんを告知され、場合によっては余命も宣告され、そんな時にどうしていいか分からない。そんな中で何か打ち込めるものをと思って参加した患者さんたちがほとんどのようだ。人生の素晴らしさを歌う第九の歌詞は彼らの心情にもあっているのだろう。まさに今を生きているという喜びの歌。これからも懸命に生きようとするそんな思いが伝わってくる。

世の中にはたくさんの方がそういう状況にあるのだろうけれど、その人たちもぜひ頑張って生きてほしい。そんな思いが自然と心に浮かんでいた。素人の集団だけどその歌いっぷりは本当に見事で素晴らしかったと思う。自分のこれからの生き方のお手本にもなる。ちなみに今日の奥さんの声はかすれていて声が出すのが辛そうだ。

 

f:id:goisan:20170401102249j:plain

 

09の会 ~ 定年記念お泊り旅行 ~

今週の月火と09の会の仲間と共に静岡方面へ1泊2日の旅行に出かけてきた。この09の会というのは、2009年に入学してきた生徒たちを一緒に受け持った8人の担任の会ことである。卒業させてしまえば担任団も解散となるのだが、その後も時々集まっては親睦を深めている。そんな中でいつ頃からか定年で退職する先生が出る時にはみんなで1泊旅行をしてお祝いしてあげようということになっていた。そして今年は英語科のT岩先生がめでたく退職を迎えられたのだ。

今回の参加者はM井さん、S本さん、K子さん、T岩さん、S野さん、それにごいさんの6人。A川さんとT金さんは都合があり残念ながら不参加。この会の企画担当は何でもよく知っている社会科のS野先生だ。今回は静岡を巡るということで、S本さんとS野さんの2台の車に分乗して初めてのドライブ旅となった。

朝9時に相模大野駅のロータリーに集合。最初に歌川広重の「東海道五十三次・由比」でお馴染みの薩た峠に向かったのだが、道路の関係かお天気が悪いためなのかで諦めることになった。昼食はあんこの町「興津」にある「和カフェ茶楽」というちょっとお洒落なお店で取る。元々は茶問屋が経営するお店のようで、ランチより和パフェや春パフェと言ったスイーツの方がメインのような感じがした。皆さん、ランチを食べた後なのによくお腹に入ると思うぐらいの感じで食べていた。

食事が終わって近くにある清見寺という禅寺に行く。徳川家康が幼少時代に今川家の人質だった頃、この寺で手習いをしていたということだ。全体的に広々としていて自由に見学できるのが良かった。庭に置かれた五百羅漢で誰かに似たのを探すというのもけっこう楽しい。

この日の宿は、焼津市郊外にあるホテルアンビア松風閣。岸壁の上に立ち、富士山、駿河湾伊豆半島が一望できる。豪華なご馳走が次々と出てくるのだが、ごいさんの体調は今一つでコップ一杯のビールを飲むのがやっと。それでもT岩さんの退職はできる限りの笑顔でお祝いしたよ。

翌日は宿を9時に出発して、最初の目的地である大井川にかかる蓬莱橋へと向かう。全長897.4mの長い木の橋ということで「厄なしの長生き橋」とも言われているとのこと。朝ドラのとと姉ちゃんにも出てきていた。続けて島田宿の大井川川越遺跡を見学。どちらもしまだ大井川マラソン大会ではお馴染みの場所だ。

f:id:goisan:20170328105923j:plain

f:id:goisan:20170328103254j:plain

昼食は「由比」にある「桜えびレストラン海の庭」というお店。ごいさんは桜えびのかき揚げ丼の小丼ぶりを注文。油がしつこくなくあっさりと揚がっていてそのサクサク感がとてもいい。元気だったらたらふく食べたいところなのだがその自信はまだない。みんなが上手そうに食べているのをただ眺めるだけだった。

食事が終わってすぐに雷が鳴り始め雨が勢いよく落ちてきたので、残りの予定をカットし一路帰途に就くことにした。今回は徳島マラソンの疲れが尾を引いて体調が十分でなく、仲間に心配をかけたのが本当に申し訳ない。次の集まりの時には、いつものごいさんで登場することを約束しておきます。

 

f:id:goisan:20170328140512j:plain

 

徳島マラソン

先日行われた徳島マラソンに参戦するために先週の木曜日から日曜日まで徳島に出かけていたのと、帰って来てすぐに09年度の会という集まりの1泊2日の旅行に参加したので、こうして記事を書くのも実に1週間ぶりとなってしまった。ともあれ急いで報告をまとめておこうと思う。

ということでまずは徳島マラソンなのだが結果は3時間51分27秒というタイムだった。最近は3時間30分前後で走っているからそれと比べるとだいぶ不満足な結果ということになる。一方では、2年前のタイムと比べれば決して悪くないし、この年齢でサブ4ならばまずは良しと考えるべきなのか。

では早速レースを振り返っていこうと思う。まずは初めてAブロックからのスタートとなった。悪い気はしないのだが妙に意識してしまって、Bブロックの人には負けちゃいけないなどと余分な気合が入り過ぎてしまった。

ウェーヴスタートが採用されていたが、それでもスタート直後の混雑ぶりは他の大会と変わらない。最初の1キロには5分20秒を要した。吉野川大橋を渡り終えると吉野川の土手を上流に向かって走るのだが、ごいさんはどうもこの川沿いを走るのが苦手なようだ。しまだ大井川マラソンや岡山マラソンでも苦しんだことを思い出す。そんな意識もあってか、一向にスピードが上がらない。それでも最初の10キロは49分47秒、次の10キロが50分30秒とまずまずの頑張りを見せる。帰りは下流に向かうというのだけが心の支えだった。

ところがそうはならなかった。25キロを過ぎていよいよ帰り道となるのだが足が一向に前に出ないのだ。足が攣るという感覚はないのだが、どうやら足の疲労が抜けていない感じだ。実はこの2日前の金曜日に鳴門の渦潮を見に行ったのだが、その帰りに徳島までの23キロの道のりを走って帰って来ていた。これも自分はAブロックだという変な過信があったからかもしれない。若い人のブログを読んでつい自分も無理が効くのではないかと思ってしまったのだ。

27キロ地点では休みたい気持ちもあってトイレに行った。この辺りから少し走っては少し休むということを繰り返すようになった。30キロまではそれまでの貯金もあってどうにか55分56秒で凌いだが、それからはさらに苦しい走りとなる。休んでいる間にどんどん抜かされていく。悔しいけどまったく追いつけない。沿道の声援にも何も応えることができない。

最後ぐらいは走り切って終わろうと思ったが後300mのところで立ち止まってしまった。ゴール後に足が攣ることもなかったから、もっと走れたんじゃないかと思ったりもした。Aブロックということで、大した力もないのに変な驕りを持って謙虚な姿勢を忘れてしまっていたように思う。そういう点では自分のマラソンを振り返るいい機会になったとも言える。

今回あれだけ苦しい中でどうにかゴールまでたどり着けたのもたくさんの応援があったればこそ。応援の皆さまやボランティアの皆さまには本当にお世話になりました。そしてありがとうございました。

 

f:id:goisan:20170326084327j:plain

 

母と一緒の墓参り

一昨日のお彼岸の中日にいつものように母を連れて父の墓参りに行ってきた。良く晴れて風もなく暖かで穏やかな日だった。父が亡くなってもう40年になるが、こうして自分がお彼岸に墓参りに行くようになったのはそんなに昔のことではない。50歳ぐらいまでは学校の仕事やら部活指導やらを理由にして、母のことも含めて妹夫婦に任せっきりだった。

それに、お墓に行ってもそこに父親がいるような気がしないというのも墓参りに積極的でなかった理由だった。いつの頃からか覚えていないが、いつでも自分のすぐ側に父親がいてくれるように感じているのだ。もちろん目に見えるわけじゃない。雰囲気というか気持ちというのか。きっと誰にもそんな感覚があると思うのだけど。時には高い空の向こうに、はたまた遠い山の頂に、あるいは自分の心の中にと、いつでも近くにいるように思っている。

それは自分自身の希望なのかもしれない。多分、自分が死んだらお墓の中にじっとしていられない。きっとあちらの世界でも自由に飛び回っているだろう。父親もそんな感じで、毎日忙しく母親や妹や自分のところ、孫たちのところを飛び回っているんじゃないかってね。死んでもそうやって楽しんでいる様子を考えては、父も幸せだろうなあなんて勝手に想像しているんだ。

さすがにお彼岸だけあって、多くの墓は綺麗な花で飾られている。お線香のいい香りが漂う。多くの人が手を合わせて、今は亡き先人に思いを馳せる。こういうのって大事にしたいけど、いつまで続くだろう。すでに自分の世代でさえお墓に入るという考えがなくなりつつある。樹木葬とか散骨葬とかにその形態は変わって行くのだろうか。どうであれ、信ずるところ思うところであればどこでも祈ることはできると思うけどね。

この日も母は一生懸命お墓を綺麗にしていた。そして作りたてのぼたもちやらお酒を供える。お線香を上げて静かに手を合わせる。何を祈っているのか。このお墓もいつかは無縁墓になっちゃうかなと言ったら、少しばかり悲しそうな顔をした。自分が生きている限りは大丈夫だよと付け加えて少しは安心したかな。

続けてこれまたいつものように横浜の祖父母の墓を回って墓参りを終える。こうやって母と墓参りに来るようになってまだ数年だ。母はいつも最後に「次はもう来られないかな。」と言う。きまって「大丈夫だよ。母さん、また来ようよ。」と僕は言う。母の作ったぼたもちはいつものように美味しかった。子供の頃からと甘さも大きさも変わらない。

 

f:id:goisan:20170320113014j:plain

 

若い先生たちへ

水曜日の日の帰り際、一人の若い先生が近づいてきた。情報の授業を教えているT内先生だ。4月から新しい学校に異動するという。そう言われて、T内先生がこの学校に新採用としてやってきて5年になるのかと思った。神奈川県では新採用の先生は最初に赴任した学校は5年間しかいられないというのがルールなのだ。彼とは同じ教科ではないし担当のグループも違っていて職員室も2階と3階とで別れていた。ただ彼がその前年に他の学校で臨任という形で働いていた時に、そこにいたごいさんの教え子と仲が良かったというのが唯一の共通な話題だった。少しでも接点があればちょっかいを出すのがごいさん流の親しみの表現。それでも日常的に会って話をするという機会はほとんどなかったと思う。

4年前にごいさんは退職したのだが、その前の年から若い先生たちには自主映画の作成だったりみんなで箱根まで走ったりと、とにかくこんな年寄りの相手をよくしてもらった。そんな思いが高じて、自分が歩んできたことで少しでも役に立てればということで「若い先生たちへ」という冊子を作って配ったのだ。退任式の前の2~3日で書いたものだから実にお粗末なものである。恥も外聞もなく、20代から30代の前半ぐらいまでの20人くらいに配っただろうか。みんな優しいからにこにこして受け取ってくれる。その時のごいさんは正しく有頂天気分だった。

それから4年が経って、彼がごいさんに4月からの異動を告げた後にこう言ったのだ。「あの冊子は自分のバイブルとしてきた。それで担任も無事にやり遂げることが出きた。これからもずっと大事にしていく。」と。もう春だけど、それ以上に暖かいものを感じてしまった。年を取るとすぐに感動してしまう。自分もとっさに「ありがとう。」という言葉を返していた。

家に帰って、もう一度その冊子に目を通してみた。その時は書くことそのものに迷いもあったけど、それに本当に大したものではないけど、こうまで大事にしてくれた先生がいたことで、なんかまた自分に自信が持てたような気がする。

せっかくなので写真に撮ってこのブログにも残しておくことにした。冊子だとしまいこんだら二度と出てこないような気もするから。見にくいけど表示を200%ぐらいに拡大すればどうにか読めそうだ。これでいつでも読める。彼の一言でまた一つ嬉しい思い出が誕生した。

 f:id:goisan:20170318185520j:plain

f:id:goisan:20170318185457j:plain

f:id:goisan:20170318185638j:plain