父の米寿の誕生日

今日は4月21日。父の誕生日だ。生きていれば88歳、米寿のお祝いだね。父は48歳で亡くなったからもう40年が過ぎる。生きていたらどんな父になっていたのだろう。

ごいさんの小さい頃の父はまだまだ若くて、どこかで酒を呑んでは誰かと喧嘩をして帰ってくるということがたびたびあった。家でもいつも怖くて、それこそちゃぶ台がひっくり返ることも何度もあった。腰を痛めて会社勤めをするようになってからは荒れることもだいぶ減ったが、ごいさんも高校生になり反抗期ということもあって父と口をきくことはほとんどなかった。父のような大人には絶対になりたくないとも思っていた。それが父に伝わるような行動もとっていたと思う。父もいつ頃からか自分に文句を言ったり怒ったりすることもなくなっていた。

その頃から父は黙々と本を読みだした。尋常小学校を出ただけで漢字を読むだけでも相当に苦労しただろう。それでもかなりのペースで読んでいた。そんなことがなんとなく気になりながらも父に話しかけてみようとは思わなかった。もしかしたら何か共通の話ができたかもしれないのに。

そんな父でも自分のことは気にかけていたのだと思う。高校や大学の入学式には決まって父がやってきた。嬉しそうな顔をしていたのは何となく覚えている。多分、ごいさんがあまり歓迎していないのは承知の上だ。大学に受かって父の会社に電話した時、電話口で大きな声で大学名を自慢げに繰り返し言っているのが聞こえた。心の中で少しばかり嬉しく思ったけど父にはそのことは語らなかった。先生になることが決まった時も、父は大いに喜んで仕事仲間に自慢したようだ。後でお葬式の日に父の同僚からその話を聞いた。

そしてその年の4月に48歳の誕生日を迎える。もちろんお祝いなんかするわけもない。6月になってごいさんは生まれて初めてのボーナスをもらった。そうして多分生まれて初めて父にお小遣いを渡した。金1万円也。もちろんそれを受け取った時の父の顔なんて見てもいない。きっと無造作に渡したのだと思う。その一週間後に父は脳溢血で倒れ、3日後に意識の戻らないまま息を引きとった。父の着ていた服にあった財布の中には1万円札が入っていた。きっと使う気はなかったのだろう。1万円札は大事そうにして丁寧にたたまれていた。

倒れる朝、「〇〇起きろ!学校に遅れるぞ!」と起こしに来た声だけが未だに耳に残っている。そして父の記憶はそこで終わっている。本当のことを語り合うこともなくいきなりの別れだった。もう少し時間が経てばごいさんも父の気持ちが分かるまでに成長したのにと思うと残念な思いだ。それから40年も経つと、悪かったところはどんどん消えて、ちょっとしたいいところがどんどんと大きくなって、想像の世界の父は理想の父親像になっている。きっと年老いた父となら上手くいったような気がする。

自分も今年の誕生日には子供とじっくり話をしてみようかな。父さんも本当はそうしたかったんじゃないの。とりあえず88歳の米寿に乾杯しようか。おめでとう、父さん!

 

桜もあっという間に散っちゃったね。f:id:goisan:20170412065724j:plain 

 

「撃沈」という勲章? ~ かすみがうらマラソン ~

ごめんなさい。今日は長文になります。適当にお読みください。

一昨日の日曜日にかすみがうらマラソンを走ってきた。いつものようにS田さんとY村さんが一緒だ。これで5回目となる。沿道の人の応援風景だったりたくさんの私設エイドがあったりとフルマラソンの楽しさを初めて教えてもらった大会である。とても素敵な大会なのだが、いつも30キロあたりから失速してしまい最後はヘロヘロになってフィニッシュするという、レースそのものは苦しいイメージしかない。

横浜6時51分発の上野東京ラインに乗って上野で常磐線に乗り換え土浦に8時37分に到着。はてブロランナーさんの集合が9時30分にあるというのでさっさと着替え、仲間の2人に事情を告げてその場所に急ぐ。すでにMacRunさんとfuruhon-yaさんがいて後からICHIZOさん、しろくまさんがやってきた。furuhon-yaさん以外は初めてだが、皆さん揃って速そうな出で立ちだ。MacRunさんとのブログのお付き合いはずいぶんと長いけどお会いするのは初めてで何とも感動的だった。時間がなくて皆さんともあまり話せなかったけど、お知り合いになれただけでも嬉しい。ということでシューズ円陣をして解散。みんなの健闘を祈る。

かすみがうらのコースは前半にアップダウンが何回かあって後半は霞ケ浦沿いに真っ平らな道を延々と走るというものだ。前半は多くの人に紛れて何とかアップダウンを乗り切れるのだが、それが後半になって足に響いてくる。おまけに今日は気温が高くなると予想されている。すでにスタートを待っている間にも十分に暑さを感じて、ある程度の覚悟はしたのだけど。

10時ちょうどにスタートの号砲が鳴る。Bブロックのごいさんは1分21秒遅れでスタートゲートをくぐる。最初の10キロは50分24秒とほぼ予定通りだったが、早くも喉に乾きを覚えて給水ごとにかなりの飲料を摂取するようになっていた。それでも20キロまでの10キロを51分42秒、中間地点を1時間47分54秒で通過したのでこれなら3時間40分台は十分可能なはずだった。

この頃は水分を摂ってもすぐに喉が渇くのでまた水分を摂るといった状態で、そのうちお腹の調子が悪くなってくる。トイレに2度ほど立ち寄ったが、ますます脱水症気味となり足に力が入らなくなってきた。27キロ辺りで4時間のペーサーにあっさりと抜かれる。ここで「棄権」という2文字が頭に浮かんだが、とにかく完走を目指すことに気持ちを切り替えた。それからは止まっては走れるだけ走ってまた止まるの繰り返しが始まった。

30キロまでの10キロは68分47秒。これでも上出来のタイムかな。残り4キロ地点ではあのロッキーおじさんから元気をもらって気持ちを奮い立たせる。40キロまでの10キロは75分21秒。ようやくラスト2キロとなった。最後の1キロになると応援の声が一層大きくなる。そしていつもより大きな嬉しさを感じながらフィニッシュを迎えた。タイムは4時間20分08秒。ごいさんのフルマラソンでのワースト記録だ。なのに順位を見たら13,962人中3,559番。「えっ」と思った。

着替えて仲間と合流したのはもう4時だった。何も飲めないかと思ったけど、ちゃっかり冷たいビールが本当に旨かった。でもその後の食事はほとんど喉を通らず、回復したのは翌日の昼になってからだった。後になってMacRunさんやfuruhon-yaさんが撃沈したことを知った。S田さんに「みんな撃沈したみたいだ。」と言ったら、「俺は絶対に撃沈なんてしないよ。頑張らなければ撃沈はないのだ。俺はそんなに頑張ったりしない。」と変な威張り方をしていた。でもこの一言には妙に納得。今まで撃沈というのはみっともないものと思っていたのだが、その前に頑張っていることが前提なのか。だから「撃沈」という言葉は、頑張った人だけに与えられる勲章なのだと。

ということでごいさんも見事に撃沈しました。応援してくれた皆さまやボランティアの皆さまには笑顔も見せられずごめんなさい。本当にありがとうございました。

 

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若い頃の父と母の顔

さて先日はマラソンで日立に出かけてきたのだが、ここはごいさんが小学校6年の夏まで住んでいた所だ。正確に言えばお隣の常陸多賀という駅から歩いて5分ほどの所に家があった。今は駐車場になっている。周りは新しい家ばかりだが、その中に見覚えのある家が廃屋のような状態で取り残されている。小さい頃、ここのおばさんにはよく可愛がってもらったのを思い出す。

全体的に街の様子は代わり映えしない。というより昔よりも人通りが減っていて寂しくなっている感じだ。日立という名前の通りこの街は日立の工場でもっている。日立の浮き沈みがそのまま反映されるのだろう。そういう意味ではここにいた小さい頃の方が街は人で溢れていたような気がする。日立の工場で働くことはごいさんにとっても憧れだったのだ。

街を歩いているのはお爺ちゃんやお婆ちゃんが多い。何人もとすれ違って、もしかしたら同級生かしらなんてことも考えたりした。途中で転校したために小学校の思い出をたどるものがほとんど残っていない。あの頃は電話も無く、離れてしまったらせいぜい手紙でやり取りするくらいだった。それに50年も経っていたら分かるはずもない。

小さい頃はいっぱしのガキ大将としてあちこちの路地を駆け回って遊んでいたから、思い出はいたるところに転がっている。それなのに最近ではそういう思い出を懐かしいものとも感じられなくなっている。それでも1年に1回ぐらいは来てみたいと思うから不思議な話だ。

なぜ自分はここに来たいと思うのだろうか。そうしてたどり着いた結論はこうだった。そう、ここにはあの頃の自分の家族がいるからだと。若い頃の元気いっぱいの父と母。それに自分にいつもくっついている妹だ。ここに来るとその頃の家族の様子が自然と浮かんでくる。たまにだけど、みんなで行った駅前の大衆食堂。日立の神峰公園にも行った。それから毎日の銭湯通い。父が海の家を建てる仕事をしている時は終わるまでその海で遊んでいた。父が友だちと酒を呑みながら意気揚々と喋っている姿も若々しい。母は毎日黙々と内職に励んでいて、たまに手伝うと本当に嬉しそうだった。熱を出すといつも蜜柑の缶詰を買ってきてくれた。

きっと自分の人生の中で一番父と母を身近で見ていた時だった。あまり好きではなかった父の顔もこの頃の生き生きとした顔はしっかり覚えている。やがて中学生になり高校、大学と進むにつれ、正面から親の顔を見ることはなくなった。気づいたら父は他界し母もずいぶんと年を取っていた。そうなんだよ。思い出したいのは自分が小さかった頃の若々しい父や母の顔だった。そしてそれはごいさんが一番好きな顔だったんじゃないか。

特に父との思い出は中学校以降ほとんどない。ごいさんも一丁前に反抗期だったからね。だからこの常陸多賀に来れば、そんな父との思い出がたくさん見つかるんじゃないかって思うんだろうね。

……なんてことをバスに揺られながら考えていたらいつの間にか眠ってしまった。

 

よく遊んだ河原子海岸。いつも水平線の向こうのことを考えていた。f:id:goisan:20170408150636j:plain

 

下の子の誕生日を迎えて

4月9日は下の子の誕生日だった。31歳になった。もう十分大人じゃん。今さら誕生日でもないだろうにって思う。確かに、そう。だからこれといってお祝いするわけじゃない。子供にもお祝いの言葉を言ったりするのでもない。ごいさん一人が勝手に思い込んで盛り上がっているだけなんだ。

小学校4年生の時の暮れからお正月にかけて発症した病気は彼の人生を大きく変えたに違いない。ミニバスをやっていて思い描いていた未来への夢は消え、さらには丸々一年に及ぶ苦しい闘病生活を送った。子供が歩くこともできなくなるかもしれないとドクターから言われたその日のごいさんは、寝ることもできないくらいにいろんなことを考えた。今でも自分がもう少し早く気づいていれば軽症で済んだのにと思っている。

腰の周りをギブスで固定して半年余り寝たきり状態だった。それがどんなに苦しいことか。家に帰ってソファでじっと動かず仰向けになって横たわってみたけど数分間も耐えられなかった。子供はそんな状況に何か月も置かれ、子供ながらに人生観も大きく変わったのではないだろうかと思う。それから20年が過ぎた。幸せなことに今のところ悪化はしていないようだ。彼の誕生日を迎えるたびにその幸せを感謝する。

子供が入院中も退院してからも、その時どんな気持ちだったのかというのを子供に聞いたことがない。なんだか怖いんだと思う。きっとこれからも話すことはなさそうだ。その代り、自分の生きている限りは見守っていこうと思っている。もちろん自己満足に過ぎないのは十分に承知している。

ともあれ今年も無事に子供の誕生日が迎えられ、それを当たり前のようにここに書けることが何より嬉しい。どんなに親バカだと思われてもね。

「まさ、31歳の誕生日おめでとう。」

 

今年は奥さんがチーズケーキをお祝いに買ってきた。f:id:goisan:20170410225951j:plain

 

第17回 日立さくらロードレース

昨日は茨城県日立市で行われた「日立さくらロードレース」という大会に参加してきた。来週のかすみがうらマラソンに向けた調整レースという位置づけだが、実はこの日立という場所、正確にはお隣りの常陸多賀というところだが、ここはごいさんが小学校6年まで住んでいた所なのだ。そういうのがあって昨年初めて参加したのだが、満開の桜の中を走り抜けるのと海の上を数キロにわたって走れるというのが快感で今年も参加することにした。

一方では、先日の徳島マラソンの失敗レースでの不安感をこの大会で払拭することができるか。そしてかすみがうらマラソンに向けて少しでもモチベーションを高めることができるか。そんなことも考えてみた。

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昨年は満開だった桜も今年は7分ほど。朝からは冷たい雨が降っていてスタートを待っている間に体はどんどん冷えていく。ようやく9時20分に号砲が鳴って走り出したものの、体が冷えて固まった感じで思うように足が前に出ない。それでも最初の1キロは周りの勢いに押されて4分46秒とそこそこの速さだった。

3キロを過ぎた辺りから6.5キロ地点の第1折り返しまでに3回、その帰りに2回の上りがある。さらにその折り返し地点から第2折り返しの14.5キロ地点までは向かい風との戦いも加わってかなりしんどいものとなる。それでも10キロを過ぎて海上の道路に出るとまさしく海の上を走っているようで爽快な気分になれる。この辺りは時々海を眺めながら淡々とキロ4分45秒のラップを刻む。

16キロ地点からはいったん横道に入り17キロ地点で3回目の折り返しとなる。この横道でも往復3回の上りがある。そうして再び海上コースに戻ってくると残りは3キロだ。追い風の勢いを借りて早めのラストスパートをかける。最後の緩い上り坂では顔が歪んだけどたくさんの応援の声に助けられてなんとかフィニッシュゲートをくぐる。タイムは1時間39分20秒。

雨で気温が下がったせいかもしれないが思った以上のタイムが出せた。これで徳島マラソンから引きずっていた気持ちが少しでも消えてくれたらいいんだけど。来週のかすみがうらはシーズン締めくくりの大会で、シーズンベストもこの大会で出すことが多い。そして次のシーズンの目標設定の基準ともなる。ということでここでもう一度3時間30分を切って気持ち良く今シーズンを締めくくりたいと考えている。

今日は朝から冷たい雨が降り続きボランティアの方たちは本当に大変だったと思う。終わってみんなが屋台のものを食べビールを飲んでいる時にもまだ仕事を続けていた。本当にありがたいことだ。お金をもらわないからこそのボランティア精神なんだろうけれど心からお礼を言いたい。皆さんがいてくれたから走ることができたのだと。それに雨の中を一生懸命に声を出して応援しくれた皆さんからもたくさんの元気を頂いた。本当にありがとうございました。天気は残念ながらの雨だったけど素晴らしい大会だったと思います。

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徳島観光 ~ 大歩危・祖谷 ~

さて徳島観光の最終日は、徳島駅から特急で1時間ほど行ったところの阿波池田駅から定期観光バスに乗って大歩危・祖谷を巡る。ボンネットバスでの観光ということで人気があるらしいのだが、この日は点検とかで代わりにやってきたのはごく普通の観光バスで、いきなり出鼻をくじかれた。昼食と各地の入場料が付いて7,500円。それに徳島からの電車賃が特急代も入れると往復5,000円余りになる。少々お高いけど、でもせっかくの機会だしね。

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バスは阿波池田駅を10時45分に出発。ガイドさんが外の景色をいろいろと案内してくれるのだが通路側に座っているごいさんには何も見えない。少しして隣の人が声を掛けてきた。一緒になった時からランナーらしいと思っていたが果たしてそうだった。あれこれ話をしているうちに同い年だということが分かってますます親近感が湧いてガイドさんの話そっちのけでマラソン談議に話が弾んだ。やはり話し相手がいるというのは楽しいものです。こちらに来て3日目、そろそろ誰かと話したくてしょうがなかったのかもしれない。

最初の見学地は祖谷渓谷の小便小僧像だ。なんでこんなところにと思うが、昔の子どもはここで度胸を試したという逸話に基づいて作られたのだという。川面まで200mもあって、下を覗くと本当に怖い。こんなところでおしっこ出るかな?

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続いて祖谷渓を望む。上から見てひらがなのひの字の形をしているから「ひの字峡谷」とも言われているそうだ。

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そしてお待ちかねの昼食。これが思った以上に豪勢なものだった。パンフレットでは「祖谷そば」しか写っていなくて正直あまり期待していなかったのだが、実際には「祖谷そば」の他にも「そば米雑炊」や「でこまわし」それに「刺し身こんにゃく」と郷土料理のオンパレード。いっぺんにこれだけ食べられるなんて相当にお得感がある。

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昼食を終えて祖谷のかずら橋へと向かう。シラクチカズラなどの葛類を使って架けられた原始的な吊り橋だ。平家の落人が、追手が迫ってもすぐ切り落とせるようにと葛を使って作ったと言われている。足元の隙間が広いのと揺れも大きいのでなかなかのスリルがある。小さい子やお年寄りには危ないんじゃないかと心配になる。老朽化が早いらしく3年に一度の割合で架け替えを行っているとのことだ。

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さてこの定期観光の一番の売りはやはり大歩危峡の舟下りなのだろう。大理石の彫刻がそそりたっているかのような美しい景観の間を縫うように船は進む。それにベテラン船頭さんのガイドが何ともいい味を出している。途中で雨が降ってきてみんなで雨よけをかけたのもちょっとしたハプニングで楽しかった。

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最後に帰りの電車までの待ち時間を利用して池田高校を見てきた。1974年の春の甲子園にわずかに11人で出場して打力で他を圧倒、準優勝に輝いた。今でも鮮明に記憶に残る。

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帰りはのんびり各駅停車。明日の大会は頑張れる……って、この時は思っていたんだけどね。

 

徳島観光 ~ 渦潮と大塚国際美術館 ~

さて徳島観光2日目、いよいよ渦潮とのご対面だ。渦が最もできると言われる満潮の時間に合わせて駅前からバスに乗り込む。ところが乗客の乗降が多いせいなのかなかなか進まなくて、うずしお汽船の船着き場に着いた時は乗る予定をしていた10時半の船が出た直後だった。

ここで30分ほど待って次の11時発の船に乗る。大きな遊覧船より小さな船の方が渦の近くまで行けるというのでそれにしたのだ。目的の場所あたりに来るとぐるぐると旋回を始める。それを合図にみんなカメラを構えて一斉に写真撮影に入る。どうやらピークは過ぎたみたいで大きな渦は見られなかったが、小さいのでも見られただけ良しとしよう。

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次に大鳴門橋の車道の下にある遊歩道「渦の道」を歩く。ところどころ床の一部がガラス張りになっていて下の海の様子が見られるのだが、45mの高さから覗き込むとけっこうな怖さも感じる。さすがにこの時間になると渦はもう見られないが、それでも展望室からの眺望はなかなか素晴らしかった。

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続いて近くにある大塚国際美術館に向かう。入場券を買おうと券売機の前で財布を出したところで手の動きが止まった。なんと一人3,240円もするではないか。大したことも調べていなくて見学も1時間ぐらいあれば十分だろうぐらいに考えていたから正直この値段には驚いた。これは逃げるが勝ちなんて思ってふり向いたらすでに後ろには何人もの人が並んでいる。瞬間、ほとんど無意識のうちにチケットを購入していた。

入場したところでちょうど定時のガイドさんの案内に混ざることができた。1フロア1時間の予定で地下3階(環境展示・古代・中世)と地下2階(ルネサンスバロック)の2フロアを2時間かけて見学することになった。これが実に詳しい説明でしかも話し方も上手でとても楽しい時間となった。さすがの芸術音痴の自分でもその歴史や絵の価値が十分に伝わってくる。この美術館にあるのはすべて本物そっくりに作られたレプリカだということで、触るのも写真を撮るのも全くの自由。こういうのも素人には嬉しい。

ではごいさんの気に入ったのをいくつかご紹介。

まずはミケランジェロシスティーナ礼拝堂天井画および壁画。ここではこのような環境展示(古代遺跡や教会などの壁画を環境空間ごとにそのまま再現するという展示方法のこと。)が本当に見事だった。f:id:goisan:20170324150739j:plain

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。この距離感がとてもいい。f:id:goisan:20170324133431j:plain

恋人を描いたという、ラファエロの「ヴェールを被る女性」。f:id:goisan:20170324144627j:plain

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」。修復前(上)と修復後(下)。f:id:goisan:20170324150650j:plain

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屋外に作られたモネの『大睡蓮』。周りを囲む池の睡蓮はこれからが見ごろだそうな。f:id:goisan:20170324151922j:plain

やっぱり「モナ・リザ」。f:id:goisan:20170324152301j:plain

ゴヤの「裸のマハ」と「着衣のマハ」。f:id:goisan:20170324152711j:plain

スウェーデンの画家ベリ・リッカードの「北欧の夏の宵」。なぜか惹かれる。f:id:goisan:20170324154511j:plain

そんなこんなで2時間はあっという間に過ぎてしまった。2時間をかけても実際に見たのは半分くらいだという。残りの近代・現代の2フロアを合わせれば、ここで丸一日過ごすのもできそうだと思った。終わってみたら3,240円の入場料、決して高くはない気がしてきた。