東日本大震災とその時のごいさん

東日本大震災から昨日で丸4年が過ぎた。2011年3月11日午後2時46分。その時、ごいさんは4階の職員室にいた。グラッときて、初めはいつものように軽く考えていたが、その揺れも大きくなりなかなか収まらない。外を見ると電信柱が左右に大きく揺れている。今まで経験したことのないような恐怖感が襲ってきた。もう立っていることもできない。それから少しして収まったものの、またすぐに第2弾が襲ってきた。これはかなりの異常事態だということは誰にでも明らかだった。しかしまだこの時点では、東北地方であのような惨劇になっているなんて全く考えられなかった。

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学校は試験後で部活の生徒が残っているぐらいだったからパニックという事態にはならなかった。夕方近くになって電車がストップしたので、帰れなくなった生徒たちを食堂に待機させる。家庭と連絡を取る一方で、毛布や乾パンそれに飲料水を配る。連絡を取るのも難しい状況だったが、最終的には保護者が迎えに来るなどして全員帰ることができた。

一段落して、ごいさんも同僚の車で実家まで乗せてもらう。一人で住む母親が心配だったが、額縁が傾いたぐらいでほとんど被害は無かった。帰りは、同じように心配してやってきた妹夫婦に車で送ってもらって、どうにか家に戻ることができた。

ようやく落ち着いて、テレビをつけてみて初めてこの地震の規模の大きさ、津波の凄さを目の当たりにした。今まで津波といっても馬鹿にしていたのだが、今回ばかりは本当に悲惨な光景だった。家も物も思い出もそして大切な人たちまでもが一瞬で消えてしまう。頭の中で何も考えることができず、ただ画面を見ているだけ。それだけで胸がギュッと締めつけられ熱くなってくるのだった。

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翌日は、子供のミニサイクルで学校に向かった。20キロの道を2時間余りもかかった。翌週に控えていた卒業式が春休みに延期になり、さらにごいさんたちの学年の修学旅行も無期限の延期になった。(実際は5月に実施された。)

時間が経って、福島の原発事故が話題の中心となった。すぐにチェルノブイリを思い出す。それでも日本の技術なら簡単に処理できるだろうと考えていた。しかし対策はすべて後手後手に回る。大変なことは分かるが、日本の技術力を信じていただけになんともやるせなく思った。この影響で、自分の土地を離れなければならなかった人たちの思いはいかばかりだったろう。

それから4年。今なお20万人を超える避難生活者がいて、復興への道のりはまだまだ遠いと言わざるを得ない。昨日、皆さんのブログを拝見させていただくと、かなりの方が東日本大震災を取り上げていた。ブログを書かれるような方はやはりその意識も高いのだと改めて思った。確かに、世間では少しずつだが忘れられていっているように感じる。この事実を風化させないためには、意識を持った人たちがいろいろな形でいろいろな人に伝えていくことが大事なのだと考える。まだわずかに4年前だ。みんなの心のどこかにその時の思いは残されているはずだから、きっと伝わる。

阪神・淡路大震災の1月17日、そして3月11日という日を忘れてはいけない。

f:id:goisan:20100819051357j:plain写真は、田野畑村島越港(上)、北山崎の断崖(中)、浄土ヶ浜のホテルから見た夕日(下)2010年8月撮影