空気のような

空気のような人、空気のような存在ってどんな人のことなのか。存在感のない人、自分にとってどうでもいい人。それとも、空気のように無くてはならない人、大切な人。考え方次第でどちらにもとらえられる。因みにごいさんは後者の方を支持する。親や長年連れ添った夫婦関係もそんなところだと思う。その大切さは分かっていてもふだんは気にも留めない。それにだいたいが空気はその存在を主張していないから、もしかしたら周りには気づいていない空気のような存在の人がたくさんいるのかもしれない。

「傍にいるだけでその人が安心できる、そんなごいさんになれないかな。」これはごいさんがブログを書き始めた時にプロフィールに書いた言葉。多分この空気のような存在なんてことを思い浮かべて書いたのだと思う。読んでほっとできるような記事を書いていきたいという気持ちだった。

空気のような存在ということでもう一つ考えたことがある。声は空気が無ければ伝わらない。誰でも知っていること。いや、ちょっと待って。空気があるだけじゃ伝わらないんだ。声は相手がいなければ伝わらない。自分の声を聞いてもらうには相手が必要なのだ。いやいや、相手がいてもその声に耳を傾けてくれなければ届いたことにはならない。声が届くというのは話をちゃんと聞いてくれる人がいるからなのだ。もちろん、ふだんはそんなことを気にしないで喋っているし、相手の話も同じように聞いている。でもこれって本当はお互いに感謝すべき大切なことなんじゃないか。ふとそんなことを考えてみた。

ごいさんは職場では誰彼かまわず話しかけてはその会話を楽しんできた。ずっとずっと何も考えずそれを当たり前のように思っていた。このことに気づいたのは実は退職する直前だった。その人たちはごいさんにとって空気のような存在だったのではないかと。空気のように気にすることもなく話しかけていたけど、彼らが聞いてくれなければごいさんの声は伝わらなかった。そうなんです。自分の声が届くというのはそれを受け取ってくれる相手がいるということなのだ。相手がいるからごいさんは話すことができるのだと。そんなことを思うようになってからは話す相手に感謝の気持ちを持てるようになった。聞いてくれる人の気持ちも考えるようになった。そうすると話をすることがますます楽しく思えてきたんだ。

また逆の立場で、空気のような存在でありたいとも思った。自分の思いを伝えたい時にその相手がいない。そんな人ってけっこういるものだ。誰もいない真空のような状態で声を出しても虚しいだけ。怒りたい時、愚痴りたい時、その傍らでそれらを静かに聞いていてあげられる。空気のようにじっとして、ただただ聞くだけ。でもその人は言葉を声に出すことで気持ちがどれだけ和らぐだろう。時にはそんな空気のような存在もいいのかなと。

 

職場から大山を望む。大山は登っても眺めても素敵な山です。f:id:goisan:20151218123940j:plain