生かされて、生きている

ここのところ頭の中でもやもやしていたことを、少しばかりまとめてみることにした。上手くは書けていないが、少しは具体化されたような気もする。

 

大学を卒業して先生という仕事に就いて社会人となった時、これからは自分の力でしっかり生きていこうと考えた。そうして、生徒にも生きる力を身につけなければいけないと繰り返した。今の学習指導要領にも「生きる力」を育むと謳われているが、そんなことは昔から言われていた。そんな生徒の手前もあって、自分自身も自分の力だけで生きていくのだと、そんなことを考えては毎日を過ごしていた。

やがて結婚をし、二人の子供も育てた。職場では中心になってバリバリ働いた。自分は確かに自分の力でしっかり生きていた。それが子育ても終わり定年が見えてきた50歳を過ぎたあたりで、心の中に少しばかり変化が生じた。確かに自分は自分の力で自分の生きたいように生きてきた。でもそれは本当に自分だけの力だったのかと。

学校の方針のことや生徒指導について多くの同僚の先生たちとずいぶんとやり合った。打ち負かしていたと思っていたけど、それは相手がうまい具合に引いてくれていたのではないか。自分が好き放題に行動できたのも、周囲がそれを許してくれていたからではないか。

どういうきっかけだったのかは判然としないが、50歳を過ぎたある日、ふっと思ったのだ。自分は周りに生かされてきたのではないかと。そこに自分の姿や声を認識してくれる人がいるから、自分が存在できる。自分の存在を認めてくれる人がいなかったら、自分は生きていると言えたのだろうかってね。家族や友だち、同僚、はたまた全く見知らぬ人まで、そういう存在があったから、自分は今まで生きてこられたのではないか。

それから一年を経るごとに自分は生かされているという思いが少しずつ大きくなり、今では気持ちの大半を占めるようになった。もちろん自分の力で生きるという思いがなければそこには進歩も成長もないのも確かだ。けれどもごいさんぐらいの年になってみると、生かされていると考える方が自然のように思えるのだ。

若い時は特にそうだと思うのだが、自分の力で生きようと考えることは大事なことだ。でもそこには仲間であったりライバルであったりと必ず誰かの存在がある。そしてその彼らに生かされている部分が少なからずあるということ。それに少しでも早く気付けば、その後の人生はもっと豊かなものになるのではないか。また、周りに生かされているというならば、成功も失敗もすべてが自分一人だけのということにはならないように思う。

今のごいさんは、まさに周りから生かしてもらっているという感じだ。でもそんなごいさんだって、まだまだ誰かを生かすことができるのではないか、ちょっとした支えぐらいにはなれるんじゃないかと思うのだ。そしてそれがこれからの人生の生きがいにも繋がっていくのではないか……と。

 

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