あれから50年

先週の木曜日の夜に、友人から高校の時のサッカー部の仲間の訃報を知らせる電話があった。いつもは年賀状のやり取りをしているのだが今年は娘さんからの寒中見舞いでそれを知ったという。彼は中学校からサッカーをやっていて入部した時から上級生に交じって試合に出ていた。試合ではかなりハードだったけど普段は大人しく話すときも敬語口調だった。「俺は山に戻る」と言って亡くなったそうだが、どんな思いで逝ったのだろう。

高校に入る頃のサッカーというスポーツは急激に人気の出てきたスポーツだった。東京オリンピックで強豪アルゼンチンを破るなどして火が付いたのだ。ごいさんもその魅力に取り憑かれた一人だった。中学校にはサッカー部がなかったから高校に入ってサッカーをやることがそのころの夢だった。実際、高校に入ってみると50人ほどの新入部員が集まった。そのほとんどはごいさんも含めて初心者で中学校での経験者は5~6人といったところだった。

3年生が引退するまではただ走らされるだけの毎日。そして夏の合宿ではOBによる地獄のしごきが待っていた。ごいさんの体重は一時40キロ前後まで落ちた。それでもやっぱりサッカーは楽しかった。チーム全体の練習が終わってから自主練。ナイターを点けて8時近くまでボールを蹴った。それから教室に戻って着替えながら仲間とのお喋りタイム。家に帰るのはいつも9時をとっくに回っていた。

テレビのダイヤモンドサッカーを見ては美しい緑の芝生に感動しスター選手のプレーに一喜一憂した。もちろん愛読書はサッカーマガジン。ノートも作ってサッカーに没頭する日々だった。その頃は大学に行くことも女の子と付き合うことも頭の中にはなかった。どうやって上手くなりレギュラーになれるか。寝ても覚めても頭の中はそればかりだった。そうやって2年生になり3年生になり、そうして最後まで残った仲間が15人だった。

現在までに今回の彼を入れて3人が亡くなっている。最初に亡くなった仲間はその時まだ30台前半という若さだった。脳腫瘍だった。手術の難しい場所だったということを後から聞いた。男の子と女の子の小さいお子さんを残して、さぞかし無念だったろうと思う。もう一人はちょうど2年前(2020年)の1月。コロナの始まるちょっと前だ。12月に脳梗塞を発症しすぐに病院に駆け付けたが胃がんの治療中ということでほとんど何も手当てができなかったという。

去年、高校を卒業して50年が過ぎた。昔のかっこいい若者(?) も、今では髪の毛が無くなったりお腹が出たりして別人と思えるほどに立派なおじいちゃんになった。住む場所が全国に散っていて会う機会はだいぶ減った。さらにはこのオミクロンで絶望的に…と思っていたところ、今度ZOOMを使って会おうということになった。う~ん、なかなか便利な世の中になったもんだね。

 

50年前の試合後の集合写真。今ではみんな別人です。(S石君はお休みでした。)

f:id:goisan:20180619163918j:plain

 

再び、前へ

2022年1月1日、生まれてから70回目の新年を迎えた。毎年同じようなことを繰り返して適当に喜びや悲しみを味わいながら、もうこんなにも生きてきたのかと感慨深く思う。小さい頃は死ぬということがとても怖くて、あと何年生きられるんだろうなんて真剣に悩んだ時がある。30歳になった時にはこれで人生の半分を生きてしまったのかと考えた。そして今ではその後半の分もとっくに過ぎてしまった。

60歳で定年を迎えて始まったごいさんの第2の人生計画も今年がその前半の最後の年となる。なんだかんだと64歳まで働いたのと2年前からのコロナ騒ぎで計画は大幅に遅れてしまったけれど、これからはもっと精力的に活動していきたい。本当にこの2年間は空白的に過ごしてしまった。マラソン大会はことごとく中止。昔の仲間と会って酒を飲むことも無かった。一昨年は母親の入退院の繰り返しや妹の手術があり、そして昨年は二人の叔父が亡くなった。

さらには大きな目標だった東京オリンピックパラリンピックボランティアの辞退。自分に残された時間の中でこの2年間は無駄に過ごしてしまったという感が強い。ここに来てオミクロンという新種が現れまだまだコロナの流行は続きそうだけど、その終焉を悠長に待っているわけにもいかない。もちろん無謀な行動は慎まなきゃいけないけど、新たな気持ちで前へ歩き出さなければと思う。

最近の自分は英語にしてもマラソンやテニスにしても以前のように楽しめてなくて、まるでルーティンワークのようにただただこなしているだけのよう。以前の自分はもっとゆったりとした気分でそれをやることを素直に楽しんでいた。それが変わってしまったのも多分にごいさんの性格だ。自分はもっとできるなんていう思い上がり。それが自分を追いつめてきた。

とまあ、そういうことで今年はその辺りを整理し修復していきたい。できないことは素直にできないと認め、できる範囲内でしっかりやっていく。そんな感じだね。人生を楽しむにはやっぱり余裕は大事。こんな基本的なこと、分かっていたはずなんだけど。

f:id:goisan:20220101065304j:plain

 

2021年 最大の決断

東京オリンピックパラリンピックボランティア ~ その始まりから辞退まで ~

2013年9月に東京オリンピックパラリンピックの開催が決定した時、そのボランティアをやることが自分の人生における最後の使命のように感じて心ときめいたのをはっきり覚えている。定年になって退職したら英語を一から学びなおして海外の人たちと交流をする。それがごいさんが50歳の時に決めた第二の人生のゴールだった。だから、ここでボランティアをやることはまさに天命のように感じられたのだ。

2019年秋、晴れてフィールドキャストのメンバーになることができた。ボランティア運営事務局から与えられた英語の研修にも取り組みながら、翌年の本番のことを考えるとワクワク感でいっぱいだった。ところが年が明けて2020年、ご存知のようにコロナウィルスの世界的流行が始まった。日本でも大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」を皮切りにあっという間に広まって、そうしてついには東京オリンピックパラリンピックは1年間の延期となった。

その間、飲食店の営業時間短縮や営業停止、そして他県への移動禁止などの厳しい措置がとられ様々な産業界では大きな打撃を受けることとなった。それは年が明けた2021年になってもさらに勢いを増す状況になっていた。そんな中、4月に入って運営事務局から東京オリンピックパラリンピック合わせて28日間のオファーを頂いた。承諾の返事の期限は5月12日。コロナの件が無ければ十分過ぎるほどの仕事内容だった。仕事の場所はプレスセンターとオリンピックスタジアム。あのユニフォームを着て誇らしげに会場に通うはずだった。

しかしコロナの勢いは増す一方で4月下旬にはまたしても緊急事態宣言が出される。IOCのバッハ会長を始めとするオリンピック関係者の無責任な発言も耳につく。そしてその当時8割にも及ぶ中止や延期という世論の声があちこちのマスコミで報道される。ワクチン優先などアスリートファーストの声は聞こえてくるがボランティアへの対応の声はまったくない。そして何よりもこの厳しい措置の中で閉店を余儀なくされた飲食店、多くの解雇された人たち。そしてそこに一緒にいるであろう子供たちのことがどうしても頭から離れなくなっていた。

親からの仕送りが止まりアルバイトの仕事も無くなって大学を辞めざるを得なくなったという大学生の話を聞いた。小中学生、高校生は端からアルバイトもできない。親が働けなくなればその影響はダイレクトに子供たちに行く。小さい子供はただ黙ってそれを受け入れるしかないのだ。どれだけの子供たちの夢や希望が失われただろう。政府がもっと早くにオリンピックを中止あるいは延期して、一丸となってコロナに対処していたら多くの子供たちを救えたのではないだろうか。

自分一人がボランティアを辞めたからといってどうにかなるものではないが、こういう気持ちで果たして外国から来た人たちを心からの笑顔で歓迎できるだろうか。

オファーを頂いてからの約1ヶ月。迷いに迷った。ごいさんの夢と現実。そうして期限日の2日前、ごいさんは辞退することを決めた。

f:id:goisan:20191031170607j:plain

 

ショート・ショート・ストーリー

その1 常磐線

小さい頃、何度となく常磐線の各駅停車に乗って横浜に住む祖母のところにやってきた。それは小さいごいさんの大きな大きな楽しみだった。何十個とある駅の名前もすべて覚えてしまった。お化け煙突が見えだすともうすぐ終点の上野駅だ。4本の煙突が1本に見えたり2本、3本にも見えたりする。その様子を窓から身を乗り出すようにして見入っていた。日暮里や上野という名前を聞くとき、いつもその頃の思い出がよみがえってくる。


その2 雪見だいふく

ある日のこと。朝、テニスコートに向かう途中で、ゴミを出しているおばあさんを見かけた。自然にその透明なごみ袋に目が行った。その中にあのアイスクリームの雪見だいふくの箱があった。あっ、このおばあちゃんがこれを食べたのかな。それともお孫さんにあげたのかしら。いや、きっとこのおばあちゃんは雪見だいふくが好きなんだ。そう思った。うちの母さんも好きなんだ。翌日、雪見だいふくを2箱買って母さんを訪ねた。


その3 病院にて

先日、病院に自分の薬をもらいに行った時のことだ。病気というほどではなくて、3か月に1度、自分ではおまじないぐらいのつもりでいる。そこで、息子さんに支えてもらいながら車いすから降りるおじいさんを見た。息子さんは60歳ぐらいに見えた。だからお父さんは優に80歳は超えているだろう。息子さんの優しさが伝わってくる何とも微笑ましい光景だった。いつか自分も息子にそうしてもらう日が来るかしら。それも嬉しいかも…なんて思ってみた。


その4 雲

昨日今日と雲一つない快晴のお天気だった。心が洗われるような爽快な気分。でも雲一つない日が毎日続いたらどうだろう。ふだん雲があるからこそ時々現れる雲一つない快晴の日に感動できるんじゃないか。なあんだ、雲さんって案外いい奴なんじゃん。それに時にいろんな形をして我々を楽しませてくれる。真っ黒な雲さんだって少しばかりふくれっ面をしているひょっとこさんみたいに思えてくる。それが爆発して雨を降らせる。雲さんあっての快晴の日がある。実は、雲さんもありがたい存在だったんだね。

f:id:goisan:20211221103814j:plain

f:id:goisan:20201231133354j:plain

f:id:goisan:20201231131703j:plain

 

とっこちゃん

12月7日火曜日の朝7時少し過ぎ、とっこちゃんが亡くなった。行年82歳。そのお葬式が11日の土曜日に一日葬で行われた。とっこちゃんの兄弟は母と80歳の末の妹の2人だけで、4人の兄と2人の姉はだいぶ前に亡くなっている。それでこの日のお葬式には彼らの子供たちつまり甥っ子や姪っ子の大集合となった。いわゆるごいさんのいとこたちだ。それだけでも十分に彼の人柄の良さが伝わるのではないかと思う。

とっこちゃんはごいさんにとって特別な存在だった。子供の頃は近くに住んで父と一緒に大工の仕事をしていた。自分が小学生の時のとっこちゃんはまだ20歳そこそこの若者で、橋幸雄に似てカッコ良く妹も大好きだった。父は酒に酔うと外でもよく喧嘩をしたがそれを仲裁するのがとっこちゃんの役目だった。そんな彼が身近にいてくれたから母も心強かったと思う。ごいさんにとっては叔父さんというより頼もしい兄貴という存在だった。

45年前父が他界してからもずっと母を支え続けてきた。春秋のお彼岸には父の墓参りもしてくれ、仕事の合間にお菓子を持っては母を訪ねてくれた。時には家の修繕などもやってくれた。彼が退職して時間ができるようになるとしょっちゅう母をカラオケに連れ出してくれた。彼の運転する大型バイクの後ろに年老いた母が乗っていく姿はけっこう見ものだった。そして毎日母に電話をかけてくれる。そのほんの一言二言の会話がどれだけ母に安らぎを与えていただろう。

去年の4月に末期の肺がんと宣告されたが抗がん剤の治療を断った。入院すればコロナで面会もできなくなる。抗がん剤の副作用も重大だ。いろんなことを考えて、彼はあるがままに生きることを選んだ。それを打ち明けられた時はショックだった。そして母には告げないでほしいという。それからは母を月に一度のペースで彼の家に連れて行った。夜は強い痛みで寝られないと語っていたが、母と会っている時はいつも毅然とふるまっていた。何も知らないでとっこちゃんと楽しそうに話をする母の姿も痛ましく思えた。

お葬式で母はたくさん泣いた。でも少し落ち着いたら向こうにとっこちゃんがいることに安心するかもしれない。いつ亡くなっても母さんの大好きだった優しくて頼もしいとっこちゃんが待っていてくれるのだからね。とにかくこの2年近いとっこちゃんの生きざまは凄かった。死を前にしてここまで強くなれるのかと思った。自分が82歳になるまであと13年。自分も最後までとっこちゃんのように生き切りたい。

f:id:goisan:20211029111032j:plain1ヶ月ほど前の写真だけど、この時の富士山はひときわ美しかった。

 

少しずつ…

この前の土曜日(11月27日)に「09の会」が2年ぶりに開かれた。この会は、ごいさんが最後に受け持った学年を一緒に3年間担当した8人のメンバーで構成されている。今回の参加者は6名。学年主任のT金さん(古希をまもなく迎えるけれど元気いっぱい。若い!)、そしてこの会のご意見番(特にごいさんの)T岩女史、幹事のS本さん(骨折した足が痛々しい。近く骨折プレートを除去する手術をするという)、それに若手のM井さんとK子さん。二人ともまだまだ若い。きっと今が仕事をしていて一番楽しい時なんじゃないかな。こうしてごいさんたちお年寄りに付き合ってくれるのは本当に嬉しい。

ごいさんが今こうしてブログを書いているのは実はこの会を開く一つの理由にごいさんがブログをまったく更新していなくて果たしてごいさんはどうしているのか、病床に伏しているのかはたまたボケて行方不明にでもなったかなどと彼らが大いに心配して、それではこの会を開いてその存在を確認しようということがあったらしい。

時々自分のブログを訪れてくれていたというのを聞いて嬉しかった。そうしてみんなから更新しないと心配になるからちゃんと書いてよという要望があって、じゃあまた書いていこうかなどと酔いに任せて気軽に約束してしまった。となると約束を反故するわけにもいかず。そうして何度もトライしているうちにあっという間に一週間が過ぎてしまった。きっと更新されるのを首を長くして待っているに違いない。とにかくなんか書かなきゃ。

と、ここまで書き終えた。で、今回は終了。

今日の記事、中身は何もなく、ただ字数をそろえただけ。でもここまで書いてみたらまた少しずつ書いていこうかなんていう気持ちになってきた…みたい。まずは自分のために。

最後に、「09の会」のみんな、ありがとう。どうにか更新しましたよ。こんな記事で申し訳ないけど。

f:id:goisan:20211124143117j:plain横浜山下公園通り

 

肩たたき

先日実家を訪れた時、母の肩たたきをした。何十年ぶりだろう。小学校に入った頃だろうか。記憶に残っているのは。母の日とか母の誕生日だったか、プレゼントの代わりに肩たたきをしたという思い出がある。それと母に肩たたきをしてあげるといくらかのお小遣いがもらえた。それを手にしてコロッケを買って食べたことや、紙芝居を見に行ったことを思い出す。

その日はテニスが終わっての帰り道だった。テニス仲間のY原さんに今日は実家に行くんだと言ったら、「肩もみぐらいしてあげなよ」と言われた。その時は今更なんて思ってさらっと聞き流した。母の家で何時間かを過ごし帰る段になって父にお線香をあげていた時にふとその言葉を思い出した。

振り向くとテレビを見ている母の背中が見える。ずいぶんと小さな背中だ。赤ん坊の時の自分は夜泣きをよくして、その度に母は自分をおんぶして外を歩いたという。この小さな背中に自分は背負われていたのか。そんなことを考えたらどうしても肩たたきをしなければと思った。

でも言葉に出すのはどうにも恥ずかしい。そこで友達を出しに使った。「母さんの肩たたきをしてくると友達と約束したからその写真を撮るよ」ってね。実際に肩たたきをしたのは本当に短い時間だった。でも、昔を思い出すには十分だった。母が言った。「○○はいい友達を持ってるね」って。嬉しかった。そして今日はもう一度肩たたきに挑戦してきた。「肩たたきをするよ」って今日は素直に言えた。きっとこれからも。

f:id:goisan:20201111155339j:plain