母の日
母の日は5月11日だけど、その日はお台場のボランティアがあるので、今日、実家に寄ってきた。ごいさんは週30時間の勤務なので、木曜日は定休日になっている。
誰もがきっとそうであるように、やはり母親との思い出は多い。記憶にある母親はいつも働いていた。仕事から帰ってきても夕飯の支度。そして家での内職。休日は朝から掃除や洗濯。もちろん今のように電化製品はない。水は井戸から汲んだ。いったいいつ休んでいたのだろうと思う。
そんな母の望みは、ごいさんを銀行員にすることだった。母の考えでは、社会的な地位もあり安定したいい仕事だと思ったのだろう。だからたいしてお金もないのに、そろばん塾に通わせてくれた。そんなに器用ではないごいさんも母の期待に応えようと頑張ったから、それなりには上達していった。それ以上に、そのおかげで数字に強くなっていった。今、こうして数学の先生をやっていられるのもそのおかげだと思う。
家は貧しいのだけれども、どういうわけか貧乏だったという印象は薄い。わずかだけどお金をもらっては紙芝居を見に行ってたし、夏にはちゃんとかき氷も食べていた。ズボンや靴下はつぎはぎだらけだけど、時々は新しいセーターも買ってもらった。
当たり前だけど、ごいさんはお金を貯められるほどのお小遣いなんてもらっていなかった。お金のないごいさんが母にできるプレゼントは、学校で賞状をもらったり、通知表でいい成績をとってくることだった。それを見て嬉しそうにするそんな母の顔を見るのがごいさんの喜びだった。そしてそのことを近所の人たちに自慢して触れ回る。それが母の楽しみだった。ごいさんにとっては、ちょっと……だったんだけどね。
遠足や運動会の日に特別に作ってくれるかんぴょうで巻いたおいなりさんは楽しみだった。母の料理は昔ながらのもので、ハンバーグとかスパゲティとかは作ったことがない。でも、白菜の漬物はそれだけでご飯のお代わりができたくらい美味しく漬けていた。煮魚や煮物はどこの飲み屋にも負けないだろう。
小学校の4,5年生の頃だったと思うが、母の妹に当たる叔母さんの影響で、石川啄木の「一握の砂」を熱心に読んだ記憶がある。子ども心に共感する部分があったのだと思う。その中の
「はたらけど はたらけど 猶(なほ)わが生活(くらし) 楽にならざり ぢっと手を見る」
というのは、まさに母のことじゃないかと思ったし、
「たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩歩まず」
を見た時は、こんなに元気に動き回っている母にもいつかそういう日が来るのだろうかと心配したりもした。
今、母の体重は40キロを切ってしまったという。ずいぶんと小さくなった。背負わなくてもその軽さは十分に分かるよ。啄木の歌のようになってしまったね。でももう少し長く生きていてほしい。まだまだやってあげたいこともあるからさ。
写真は、カーネーションとプレゼントの帽子