若い頃の父と母の顔
さて先日はマラソンで日立に出かけてきたのだが、ここはごいさんが小学校6年の夏まで住んでいた所だ。正確に言えばお隣の常陸多賀という駅から歩いて5分ほどの所に家があった。今は駐車場になっている。周りは新しい家ばかりだが、その中に見覚えのある家が廃屋のような状態で取り残されている。小さい頃、ここのおばさんにはよく可愛がってもらったのを思い出す。
全体的に街の様子は代わり映えしない。というより昔よりも人通りが減っていて寂しくなっている感じだ。日立という名前の通りこの街は日立の工場でもっている。日立の浮き沈みがそのまま反映されるのだろう。そういう意味ではここにいた小さい頃の方が街は人で溢れていたような気がする。日立の工場で働くことはごいさんにとっても憧れだったのだ。
街を歩いているのはお爺ちゃんやお婆ちゃんが多い。何人もとすれ違って、もしかしたら同級生かしらなんてことも考えたりした。途中で転校したために小学校の思い出をたどるものがほとんど残っていない。あの頃は電話も無く、離れてしまったらせいぜい手紙でやり取りするくらいだった。それに50年も経っていたら分かるはずもない。
小さい頃はいっぱしのガキ大将としてあちこちの路地を駆け回って遊んでいたから、思い出はいたるところに転がっている。それなのに最近ではそういう思い出を懐かしいものとも感じられなくなっている。それでも1年に1回ぐらいは来てみたいと思うから不思議な話だ。
なぜ自分はここに来たいと思うのだろうか。そうしてたどり着いた結論はこうだった。そう、ここにはあの頃の自分の家族がいるからだと。若い頃の元気いっぱいの父と母。それに自分にいつもくっついている妹だ。ここに来るとその頃の家族の様子が自然と浮かんでくる。たまにだけど、みんなで行った駅前の大衆食堂。日立の神峰公園にも行った。それから毎日の銭湯通い。父が海の家を建てる仕事をしている時は終わるまでその海で遊んでいた。父が友だちと酒を呑みながら意気揚々と喋っている姿も若々しい。母は毎日黙々と内職に励んでいて、たまに手伝うと本当に嬉しそうだった。熱を出すといつも蜜柑の缶詰を買ってきてくれた。
きっと自分の人生の中で一番父と母を身近で見ていた時だった。あまり好きではなかった父の顔もこの頃の生き生きとした顔はしっかり覚えている。やがて中学生になり高校、大学と進むにつれ、正面から親の顔を見ることはなくなった。気づいたら父は他界し母もずいぶんと年を取っていた。そうなんだよ。思い出したいのは自分が小さかった頃の若々しい父や母の顔だった。そしてそれはごいさんが一番好きな顔だったんじゃないか。
特に父との思い出は中学校以降ほとんどない。ごいさんも一丁前に反抗期だったからね。だからこの常陸多賀に来れば、そんな父との思い出がたくさん見つかるんじゃないかって思うんだろうね。
……なんてことをバスに揺られながら考えていたらいつの間にか眠ってしまった。
よく遊んだ河原子海岸。いつも水平線の向こうのことを考えていた。