「老後」と「余生」

ここのところ少しばかり考えていた言葉がある。それは「老後」と「余生」という2つの言葉だ。「老後はどんなふうに過ごしているか」、「余生をどのように楽しもうか」などと当たり前のように使っている。確かに、自分が小さい頃に見てきたお爺ちゃんやお婆ちゃんはそんなイメージだったように思う。だから自分もいずれは年を取りその時になったらどのように過ごすかなんてことを当たり前のように考えてきた。

でもここにきてちょっとした疑問が湧いたのだ。まず「老後」や「余生」っていつ頃をさすのかということ。それと「老後」と「余生」の意味合いだ。老いた後と書いて何を表しているのか。「余生」っていうのはどうだろう。余った人生って何なんだろう。ガンや不治の病で余命を宣告される人がいるが、その人たちの残された時間のことを余生とは言わない。ふだんから気にも留めずに使っている言葉なのに、ここにきてよくよく考えてみるとその意味合いが実に曖昧に思えてきたのだ。

定年で退職して働かなくなったら老後、ずっとそんなふうに思ってきた。でも自分が64歳となり実際に年を取ってみるとどうにも老後と呼ばれるには抵抗を感じてしまうのだ。年を前後して自分の周りにたくさんの仲間がいる。彼らはテニスをやりフルマラソンも走る。いやいや70歳、75歳になってもみんな元気だし、老後という感じじゃない。それに彼らはまだまだ社会に貢献できると考えている。

運動ばかりじゃない。絵を描いたり楽器を演奏したりそれと読書に夢中になっている人もいる。そういう生き生きと何かに取り組んでいる人に老後という言葉はどうにもふさわしくないように思う。余生という言葉も同様だ。余りの人生なんてどう考えても変だ。人は何かをしている時、何かしら目的を持っているのではないか。それは老いた後でも、余った人生を生きているのでもない。まさに人生真っ只中を生きていると思うのだが。

そんなこと考えていたら、自分はきっと老後も余生もないままに人生を終わるんじゃないかと思えてきた。あえて言うなら、病室のベッドから出ることもできなくなっていつ死ぬか分からないといったあたりが老後なのかしらね。でもそれじゃ何もできない。自分の人生は最後までしっかり生き抜いて終わりたい。だから自分には「老後」とか「余生」という言葉は不要なのだと。

ただ母親を見ていて、これが老後の生活かと思う時がある。わずかな年金での暮らしは質素だけど、日々の散歩を楽しみ、ご近所さんとお茶を飲みながらお喋りに興ずる。見たいテレビを観て食べたい分だけのご飯を作って食べ、風呂に入り床に就く。たまに見る子供の元気な様子に安心している。何か欲しいものがあるでもない。自分に見合うだけの生き方に十分に満足している。死ぬのは怖いようだけど半ば覚悟はしている。いつお迎えが来ても悔いの残らない状態。

母のような境地で過ごせたなら老後や余生も案外いいものかもしれない……けど。

 

明日は黒部名水マラソンを走ってきます。f:id:goisan:20170603003042j:plain