父の日に思ったこと
先週の日曜日。その日はうちの奥さんは朝から出かけていて家に一人でいたのだが、お昼近くにインターホンのチャイムが鳴った。玄関を開けてみると今噂になっているクロネコのお兄ちゃんが立っていた。品物を受け取ってリビングで開けてみると、「お父さん いつもありがとう」と箱の上に書かれた文字が目に飛び込んできた。それで今日が父の日だということを思い出した。
この贈り物は長男夫婦からのものだった。箱を開けると、そこには6本の瓶ビールとつまみが入っていた。珍しいビールでいかにも高そうだ。よく冷えていてすぐにでも飲みたかったところなのだがもったいないという思いが先に立って、さっさと冷蔵庫にしまい込む。昨年はそれで飲むのをすっかり忘れていたということがあったのだが。
ということで、父の日は世間一般には子供が父親に感謝を表す日ということになっている。もちろん我が家も同じだ。でもごいさんはまたちょっと違った考えを持っている。それは、この日は自分が父親であるということを改めて自覚しなければいけない日ではないか。父親である自分が、今まで父親としてきちんとその役割を果たしているかを確認する日ではないかという考え方だ。
彼らが高校生ぐらいまでは何だかんだと一応は父親らしいことをしてきたと思うのだが、その後はだいぶ出番が減ってしまった。母親である奥さんの方はまだまだ活躍しているようで羨ましく思う時がある。長男が結婚してからはいっそう父親の体をなしていないような気がする。お爺ちゃんとして孫の役に立つなどできることはありそうなのだが。
自分は24歳の時に父を亡くしたので、その後の父の姿を見ていない。父の亡くなった49歳までは良くも悪くもこれが父親なのかということがイメージできたのだが、50歳を過ぎてからは未知の世界を歩いてきた。友だちの父親ぶりを見ていてもなかなか分らないものだ。子供が息子か娘ということでもだいぶ違う。自分なりに考えて行動しているつもりでもいつも何か足りないような気がしていた。
自分は父がいなくてもここまで生きてきた。だから正直言えば父親なんていなくてもなんとかなるとも思っている。それでも大事な局面ではこんな時に父が居てくれたらと思ったことがたびたびあった。だから今のごいさんの役割は、何かをしてあげるではなくただ静かに彼らの傍に居てあげるだけでいいのではないかとか考えた。そこに居るという安心感を彼らに与えられればそれで十分ではないかと。
少しでも長く生きて、彼らの心の拠りどころでい続けたい。そうして見守られているという安心感を子供たちに与え続けたい。今日の父の日に改めて思ったことだった。