奥州平泉(5月19日)

平泉を訪ねるのはこれで3回目になる。最初に来たのが大学の浪人時代で、仲間4人でやって来た。その時何を思ったかは忘れてしまったけれど、訪れたのが夏の暑い時で深い緑の景色だけが記憶に残っている。2度目は6年前の呑兵衛仲間達との旅行だった。ただこの時は時間があまりなくさらっと見ただけ。それで今回は改めてじっくり見て回ろうという気持ちでやってきた。

この日は今にも雨が落ちてきそうな曇り空で風も冷たく気温もだいぶ下がっていた。去年の暑いという印象から半袖のシャツしか持ってこなくて、この日に半袖を着ているのは自分ぐらいだった。そんな寒さにもめげずにレンタサイクルを借りたのだが、案の定、腕には鳥肌が立つ。寒いうえに他人の視線も気になってどうにもいたたまれない。

最初に向かったのは「柳之御所遺跡」。「吾妻鏡」に記されている「平泉館」という、いわゆる藤原氏が政治を行っていたという場所だ。池、掘立柱建物、井戸などの遺構や土器、陶磁器などの遺物が多数発見されている。目を閉じて耳を澄ますと、昔の人たちの活気のある声が聞こえてきたような。f:id:goisan:20180519110153j:plain

下の写真は、三代秀衡が平等院鳳凰堂を模して建立したという無量光院の跡。伽藍はすべて消滅してしまい、今はその面影を偲ぶのみだ。ちょうど東北本線の電車が来たところをパチリ。f:id:goisan:20180519113604j:plain

次に向かったところは「高館義経堂(たかだちぎけいどう)」という義経終焉の場所。頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡の奇襲によって自害、31歳という短い人生だった。この高館からの眺望は平泉随一と言われ、ここで芭蕉藤原氏の栄華や義経への思いを込めて「夏草や 兵共が 夢の跡」と詠んだ。f:id:goisan:20180519114827j:plain

f:id:goisan:20180519114753j:plain

そして中尊寺。この地を治めることになった清衡は、敵味方関係なく戦で命を落とした人々の霊を弔うためにこの中尊寺を建立する。戦に嫌気がさした彼は、この平泉で争いのない平和な国を作ろうとした。そうしてその思いは二代基衡、三代秀衡が引き継がれ、100年に及んで藤原氏が栄えることになる。f:id:goisan:20180519122453j:plain

中尊寺にはたくさんのお堂があり、それぞれに様々な仏像が祭られている。一体一体の顔の表情やしぐさが違う。最近ではそういう仏像を見るのが楽しみだ。そしてそれらの一番奥にあるのが金色堂藤原氏が滅亡した後もずっと大切に守られ昔のままに輝いている金色堂を見た芭蕉は「五月雨の 降り残してや 光堂」という句を残す。f:id:goisan:20180519131637j:plain

最後は毛越寺。ところでこのお寺の名前、読むのが簡単ではない。初めは「モウ・オツ・ジ」だったそうだが、それが「モウ・ツ・ジ」になりそして「モウ・ツウ・ジ」になったのだという。この毛越寺は、二代基衡が作り始めて三代秀衡の時に完成する。「浄土庭園」といわれる広々とした庭園をのんびり歩くと自然と心が癒されてくる。f:id:goisan:20180519145827j:plain

f:id:goisan:20180519150605j:plain

100年続いた藤原氏の栄華も、秀衡が亡くなるところから滅亡への道が始まる。秀衡は頼朝が攻撃してくることを心配して、「義経を主君として、頼朝の攻撃に備えよ。」と子どもの泰衡たちに遺言して没するのだが、その願いは叶わなかった。もしも自分が泰衡だったら、義経と共に頼朝と戦ったか、やっぱり義経を殺したか……難しい選択だ。