母と一緒の墓参り
一昨日のお彼岸の中日にいつものように母を連れて父の墓参りに行ってきた。良く晴れて風もなく暖かで穏やかな日だった。父が亡くなってもう40年になるが、こうして自分がお彼岸に墓参りに行くようになったのはそんなに昔のことではない。50歳ぐらいまでは学校の仕事やら部活指導やらを理由にして、母のことも含めて妹夫婦に任せっきりだった。
それに、お墓に行ってもそこに父親がいるような気がしないというのも墓参りに積極的でなかった理由だった。いつの頃からか覚えていないが、いつでも自分のすぐ側に父親がいてくれるように感じているのだ。もちろん目に見えるわけじゃない。雰囲気というか気持ちというのか。きっと誰にもそんな感覚があると思うのだけど。時には高い空の向こうに、はたまた遠い山の頂に、あるいは自分の心の中にと、いつでも近くにいるように思っている。
それは自分自身の希望なのかもしれない。多分、自分が死んだらお墓の中にじっとしていられない。きっとあちらの世界でも自由に飛び回っているだろう。父親もそんな感じで、毎日忙しく母親や妹や自分のところ、孫たちのところを飛び回っているんじゃないかってね。死んでもそうやって楽しんでいる様子を考えては、父も幸せだろうなあなんて勝手に想像しているんだ。
さすがにお彼岸だけあって、多くの墓は綺麗な花で飾られている。お線香のいい香りが漂う。多くの人が手を合わせて、今は亡き先人に思いを馳せる。こういうのって大事にしたいけど、いつまで続くだろう。すでに自分の世代でさえお墓に入るという考えがなくなりつつある。樹木葬とか散骨葬とかにその形態は変わって行くのだろうか。どうであれ、信ずるところ思うところであればどこでも祈ることはできると思うけどね。
この日も母は一生懸命お墓を綺麗にしていた。そして作りたてのぼたもちやらお酒を供える。お線香を上げて静かに手を合わせる。何を祈っているのか。このお墓もいつかは無縁墓になっちゃうかなと言ったら、少しばかり悲しそうな顔をした。自分が生きている限りは大丈夫だよと付け加えて少しは安心したかな。
続けてこれまたいつものように横浜の祖父母の墓を回って墓参りを終える。こうやって母と墓参りに来るようになってまだ数年だ。母はいつも最後に「次はもう来られないかな。」と言う。きまって「大丈夫だよ。母さん、また来ようよ。」と僕は言う。母の作ったぼたもちはいつものように美味しかった。子供の頃からと甘さも大きさも変わらない。