母と補聴器
昨日、先週に注文した補聴器が出来てきた。補聴器を耳に当てた母親は、聞こえる、聞こえると言って大はしゃぎ。とても嬉しそうだ。22万円もするから安い買い物ではない。半年ほど前に欲しいことをごいさんには言っていたのだが、その後で日立に住む伯母さんが50万円の補聴器を買ってもあまり使っていないと聞いてそのままにしておいた。母にはそんなに効果はないようだと伝えていた。少し大きな声で話せば会話もできるし、テレビは字幕でたいがい済む。だいたいプロレスとか相撲とかのスポーツ番組がほとんどだからそんなに問題も無かろうと思っていたのだ。
ところが母にしてみればかなり切実な問題だったのだろう。大きな声で話してもらってもやはり聞き取りにくい。テレビの字幕ではなくちゃんと生の声が聞きたい。昔までとはいかなくてももう少し普通に聞こえてほしかったのだと思う。最近になって、また補聴器が欲しいと言いだした。
ここでようやく母の気持ちに気がついた。できるものなら普通に声が聞けて普通に話がしたい。話好きの母親ならなおさらだろうと。補聴器をつけることで改善されるならやるだけやってみようと考えた。値段はピンキリだ。どうせならしっかりしたものを買って、それで聞こえにくかったら母もしかたないと諦めるだろう。
母は昔から自分のことより子供のためにお金を使ってきた。86歳という年になってもそれは変わっていない。お小遣いをやれば使わずにどこかにしまい込んでしまう。そのくせごいさんにも妹夫婦にも何かあるとお小遣いをくれようとする。今も、食べる物以外にほとんどお金を使っていないんじゃないだろうか。お金なんか残さなくていいから、自分の欲しいものを買いなよといつも言っているのにね。今回の補聴器ももちろん自分のお金だ。それだって自分から使おうとしない。わざわざごいさんに許可を求めてくるのだ。
それにしても補聴器の性能はかなりいいらしい。子供のようにはしゃいでいるのを見ればいかに嬉しいかが分かる。10歳ぐらいは若返った感じだね。それまでテレビのボリュームを30近い音量で聴いていたのが半分の15ぐらいまで下げてもまだ大きいという。今までは近くで人が話をしていても蚊帳の外に置かれている感じだった。話好きの母にとっては辛かったんじゃないか。それがこれからは堂々とその輪に入れる。本当に嬉しそうだ。
この何年もの間、諦め我慢していたこともいろいろあるのだろう。もっと早く気づいてあげるべきだったと後悔している。そうすれば社交的な母にとって、もっと楽しく豊かな毎日を送れていたに違いないない。帰る間際に、「22万円分を取り戻すまではせいぜい長生きするんだよ。」と憎まれ口を叩くのがやっとだった。
母さん、ごめん。本当にもっと早く気づくべきだった。まだまだ長生きしてくれないと困るよ。
去年の8月、札幌農学校で撮った赤とんぼ。