「東北・みやぎ復興マラソン 2017」を走る ~ 前 ~

1日の日曜日に、宮城県仙台で行われた「東北・みやぎ復興マラソン」に参戦してきた。1週間前に榛名湖マラソンを走ったばかりでという声も聞こえてきそうだが、初めに申し込んでいたのはこちらの方だった。この大会が開かれると知った時、あの震災で受けた被害がどのようなものだったのか、そしてあれから6年半が過ぎて復興はどうなっているのか、それを見ないではいられない思いだったのだ。その後で調整という意味合いもあって榛名湖を選んだのだが、結果として今のごいさんには少々無謀だったかもしれない。

8月まではどうということもなかったのに何の前触れもなく9月に入って急に腰の周りが痛み出したのだ。元々体型のバランスが崩れているのは知っていたのだが、それをかばうような走り方のせいだと思うのだが、走り終えるとかなりの痛みを覚えるのだ。榛名湖ではどうにか乗り切れたので大丈夫だろうと思えたのだが、その痛みはじんわりと続いていて、その不安を拭い切れないまま当日を迎えることになった。

さて、今回はボランティアに来ているブログ仲間のバンビさんに会うのが楽しみの一つでもあった。会場に着いて参加賞のシャツをもらって待ち合わせ場所に向かうと、すでにバンビさんは到着していて自分を待っていてくれた。まずはお揃いのはてブロシャツでの記念撮影。若いお嬢さんがこういうお年寄りにつき合ってくれるというのは本当にありがたいことだ。それにしても、ボランティアをやるためだけに東京からここまで出向いて来るなんて凄い。いかにもバンビさんらしい……と思った。

Bブロックのごいさんは、A、Cと一緒に第1ウェーヴでのスタート。いくつかのアトラクションが終わってスターターの紹介でどよめきが起こる。紹介されたのはあの星野仙一監督だったからだ。聞き覚えのある声が響いた後、9時15分に号砲が鳴らされる。少し遅れて、星野監督に手を振りながらごいさんもスタートラインを通過する。

いつもなら最初からある程度の流れに乗って行くのだが、今回ばかりはどうにも自信がない。ともあれ目標は3時間40分台と設定し、キロ5分20秒くらいを刻んでいけばいいと考えた。ところが1キロも行かないうちに最初のアクシデントが発生する。道路の段差で足を取られ腰がギクッとして軽い痛みが走ったのだ。いつもならどうとも思わないのに、今回はこれでますますナーバスになってしまった。

何もないところに作られた真新しいかさ上げ道路を淡々と走っていく。本当に何もなくて、ここが震災の場所であったことは歴然だ。そしてそこにたくさんの人が並んで、「来てくれてありがとう。走ってくれてありがとう。」と大きな声で応援してくれている。今日の自分がそれに応えられるほどの余裕が無いのが何とも情けない。せめてこのコースを最後までしっかりと走り切ることで応えたいと思うのだった。

最初の5キロは26分45秒とほぼ予定通りの入り。ただBブロックということもあって、この時点では次々と追い抜かれていく。負けず嫌いのごいさん、相当に悔しいのだが、今日はどうしようもない。

 

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秋のお彼岸、墓参り

マラソンがあったので書きそびれていたが、お彼岸の墓参りの記事を書き上げることにする。

先週の木曜日に恒例の墓参りに行ってきた。例年と変わったのは初めて平日に行ったということ。今年は仕事をしてないということで、敢えて混みあう中日に行く必要もないだろうと考えた。他はまったくいつも通り。妹夫婦と合流して母を迎えに行く。母はいつもと同じようにおはぎを作って待っている。母が入れた熱いお茶を飲みながらまずはおはぎの試食会だ。甘さが控えめでおしとやかな味わい、母の作るおはぎは相変わらず美味しい。

母は暇さえあれば小豆を煮て餡子を作っている。それをパンに挟んでお昼に食べるのだという。もちろんごいさんが小さい時からもよく作っていた。ごいさんはそれを熱いご飯の上に乗せて食べるのが好きだった。他人に言うと変な顔をされるが、なんのことはない、要はおはぎと同じ原理だ。敢えて丸くしないだけなのだ。今も作った時はお裾分けをもらって帰る。

餡子のことを書いたら母の作ってくれた料理のことを思い出した。母の作るものはもちろん漬物から始まって煮魚や煮物といった和風物ばかりだった。どうしてもハンバーグを食べたいとねだったことがあって、そうしたら見よう見まねで作ってくれたのだけど、それがどうにも本物とは程遠いものだったという思い出がある。

時々お弁当を持っていくことがあったが、母の作るお弁当のおかずはいつも決まっていた。それはきっとごいさんの偏食のせいだ。いつも決まったものが決まった場所に納まっている。毎日食べても飽きない自信があった。甘く焼いた玉子焼き、のり弁ふうに海苔がご飯の間にサンドイッチされている。それとメンチカツを甘く煮たのがご飯の上に乗っていてご飯にしっかり味が染みている。味噌漬けのお新香も定番だ。時々変わるのが玉子焼き。しょっぱく焼いて刻んでフリカケ風にしてあったりゆで卵や煮卵にしてくれる。もうこれで十分。逆に言えばお弁当を持っていく時だけ食べられる貴重なものだった。今、自分で弁当を作る時もこれが基準になっている。

平日だから人の姿はそれほどないが、それでも多くの墓にはすでに立派な花が供えられていた。母はいつものように墓石を丁寧に拭く。雑草も抜いて綺麗にしたところでお線香を上げる。風もなく実に穏やかな天気だ。手を合わせている母親はどんなことを考えているのだろうか。ともあれこの秋も母と一緒に墓参りを済ますことができた。父と祖父母の2か所のお墓を回って帰ってくるともう3時を回る。

最近は会うたびに少しずつ弱くなっているように感じられる母だが、まだまだ強い性格は健在だ。誰かに甘えちゃいけないって毎日のように自分に言い聞かせているのだろう。ごいさんにとって母は生き方の見本のような存在になっている。

 

敬老の日に孫から送られたお菓子の山』f:id:goisan:20170918181304j:plain

 

2017 榛名湖マラソン、完走

昨日、榛名湖マラソンを走ってきた。初めて走った昨年は、30キロ付近で両足がつって残りの10キロほどを苦痛に喘ぎながら走ったというのがあって、今年はきっと走る気にはならないだろうと思っていた。それがはてブロランナーのfuruhon-yaさんがエントリーするのを知ったら、自分ももう一度あの坂道に挑戦したいという気持ちになってきた。それと昨年10月の大阪マラソンでサブ3.5を達成できたのもここでの苦しみがあったからではないかと考えたのだ。

今回も前日は高崎駅前のホテルに泊まり、早朝の送迎バスで会場に向かうことにした。榛名湖畔の会場には1時間余りで到着。受付でもらったゼッケンをはてブロシャツに付け、荷物を預けたところで、偶然にfuruhon-yaさんに再会した。奥様とお嬢さんがご一緒だった。前日に来て榛名山に上ったり榛名湖でボート遊びを楽しんだりしたそうで、furuhon-yaさんも優しいパパぶりを存分に発揮していたようだ。

『furuhon-yaさんご家族と一緒にシューズ円陣』f:id:goisan:20170924081336j:plain

彼らと別れて軽くストレッチをしてスタートの列に並ぶ。実は先週末から腰骨の右側の部分が痛んでここ数日まともに走れていない。金曜日になんとか20キロ走ったものの鈍い痛みと共に腰が重く感じられる。そんなことで今回は少し緩めに、昨年のタイム(4時間4分7秒)を上回ることと、2キロ続く坂道を止まることなく走り切ることの2つを目標として考えた。

9時ちょうどに号砲が鳴る。ごいさんはCブロックでのスタート。今日はfuruhon-yaさんの奥様とお嬢さんが自分のことも応援してくれるという。実際、周回ごとに「頑張って」とかけてくれる声は本当にありがたかった。コースは最初に3キロほどを小回りしてから、1周8キロ弱の榛名湖畔の周回コースに入っていく。その最初に長い坂道がある。やっとの思いで上りきった後の下り坂がまた急過ぎて足にかなりの負担が来る。その後も小さなアップダウンが数回あり、そして2周目に入ってまたあの長い上り坂となる。これを繰り返すこと5回。考えただけで気が遠くなる。

今回はサブ4が目標だったので無理をせずキロ5分30秒を目安に走った。もちろんあの急坂で失ったタイムは回復させなければならない。鈍い痛みはあるものの腰の方もどうにか大丈夫そう。最後の2周ぐらいからは先に行くランナーをかなり追い抜くことができた。最後の上り坂を終えて数分の貯金があり、これでサブ4間違いないと判断して、途中のエイドで名物のカレーを味わった。大きいじゃがいもだなあと思って食べてみたらなんと肉の塊。いやあ贅沢だ。

そこからの最後の4キロは、前方にBやCといったライバルたちのゼッケンを見つけては抜くことに専念する。最後の200mでは一気に3人ほど抜いてフィニッシュ。タイムは3時間55分43秒。これで無事に目標達成。furuhon-yaさんは3時間38分と言っていたから、奥さまとお嬢さんに立派な勇姿を見せることができたみたいだね。

来週は宮城復興マラソンがある。まだプレシーズンマッチの意味合いなので無理はしないけど、少し自信が戻った感じなのでもう少しだけ頑張ってみようかと思っている。

 

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40年前から届いた声の手紙 ~後編~

3本目のテープの最後に「こっちは二人とも大学院はダメだった。残りは君だけだ。頑張ってきたS井君が落ちるはずはない。無事に通り抜けることを祈っているぞ。」と熱く語りかけている。が、この一週間後に憮然とした態度で彼は現れる。このテープが届いた時はすでに落ちていたのだと。なんとタイミングの悪い。でもそれを聞いたら急に可笑しさが込み上げてきてO江君と二人で大笑い。つられるようにS井君も笑い出して三人での大笑いの大合唱となった。このテープが届いた時、彼は一人打ちひしがれていたという。それがこのテープを聴いたらなんだか沈んでいるのが馬鹿らしくなって、それで我々の顔が見たくなって帰ってきたという。

次のテープはS井君から初めて送られてきたものだ。時々お猿さんのきゃきゃという声が聞こえる。大学院を落ちた時の思いが綿々と語られている。そういう状況だからいろんな節約をして一日を200円ほどで生活しているという。O江君と二人で体は大丈夫なんだろうかと心配する。内容もそうだが、猿しかいない部屋で一人淡々と話しているのがなんとも悲しい。最後に田中角栄ジャイアント馬場の物真似をして少しばかり元気な所を見せてはいるのだけれど。

そしてこちらからの最後のテープは、ごいさんの新しい家で12月5日の深夜に録音された。自分は、神奈川、茨城の教員採用試験に合格。東京はまだ結果待ちだが、これで4月からは先生としてスタートすることが決まったこと。O江君は落ちたと思っていた東工大大学院に合格していたことを報告している。テープの終盤では、大学院を落ちてしまったS井君に再挑戦を勧めている。老子の「学を絶てば憂い無し(絶学無憂)」を引き合いに出して、「お前は普通のサラリーマンには向かない。研究所で一生を過ごすのがお前なのだ。」と、学問を続けることを説得している。二人して真剣に彼の復活を祈っているのだが、それがとても純粋で新鮮に感じる。

最後のテープは再びS井君から送られてきたもので、勉強を再開したという報告から始まっている。毎日、実験を4~5時間、そして自分の勉強を6時間という日課で過ごしているという。二人のテープが励みになったらしく、「憂いこそ喜びであり自分の人生なのだと思う」と述べている。まだやれるという自信がようやく出てきたようだ。きっとこれを聴いた当時の自分たちは大いに安心したことだろう。

S井君、O江君、そして自分の三人、会えばいつも涙を流すほどに笑っていた。よく遊び、よく話し、よく笑った。この二人がいれば他に友は要らないと思った時もある。さて3人のそれからだが、S井君はその3月に再挑戦して今度は見事に合格を果たす。そしていくつかの大学を経て京都に戻り、今も現役の教授として働いている。O江君は大学院を修了後、改めて大手鉄鋼会社に就職し海外にも派遣されるなど活躍した。今は一級建築士として個人事務所を開いている。そしてごいさんは……もちろん皆さんご存知の通り。

40年前から届いた声の手紙。そこで40年前の自分が生き生きと喋っている。今を生きているようで何とも不思議な感覚だ。その彼に比べて、今の自分が少しばかりみすぼらしく思えてきた。頑張んなきゃ。今を生きているのは今の自分なのだから……って思った。

 

犬山にいるS井君に向かってO江君と一緒にエールを送っているところ?(山中湖にて)f:id:goisan:20170918125957j:plain

 

40年前から届いた声の手紙 ~前編~

先日、京都にいるS井君から一通の手紙が送られてきた。中にはメッセージと1枚のSDカードが入っていた。そのカードに録音されていたのは40年も前にS井君とやり取りした声の手紙だった。再生すると二人の会話する声が聞こえてきた。一人は親友のO江君で、もう一人が自分の声だ。声は変わっていないが、ずいぶんと若々しい。テープレコーダーがそれまでのリール式からカセット式に変わりつつある時だった。新しいのを買って妙に浮かれていたのだろう。これを使って、犬山の研究所で大学院を目指していたS井君に声の便りを送ろうということになったのだ。

彼が先に大学を卒業してその研究所に行くまではO江君と自分と3人で暇さえあれば遊んでいるという関係だった。親友が遠くに行ってしまったということで寂しさもあったに違いない。4月に最初のテープを作ってから1年間に4本のテープを作って彼に送った。彼からも2本のテープが送られてきた。その6本のテープを編集して改めて彼に送ったのだが、S井君はこの40年間大事にとっておいてくれたようだ。

作ったことは覚えていても何を録音したかまるで覚えていない。聴いてみるとどうやら最初からテープを作ろうということではなかったらしい。その日にたまたま行きつけのパチンコ屋でO江君に出会って、他にやることもなくてそれじゃあといった乗りで始まった感じだ。その内容はというと、時は大学4年の4月のようで卒研に向けての研究室が決まっただとか、大学に行く日が週に3日になったとか言っている。もちろんサルの研究の手伝いをしているS井君のことも話題にして、「猿とは仲良くしろよ。猿にマージャンは教えられるのか。猿のバナナを取って食うなよ。」と言いたいことを言っては盛り上がっている。いかにもお気楽な大学生の会話が30分続いている。

2本目のテープはO江君が大学院を受ける話が中心になっている。それまで大手鉄鋼会社に就職を考えていたのだが、「私学じゃ出世にも限りがあるから一度大学院に進んでみたら」というごいさんのアドバイスで彼も大学院を目指すことになったのだ。この時、自分は教員採用試験を受けることを話している。それに大学院も受けるようで、まだ気持ちが揺れ動いているのが感じ取れる。時間が夕方の5時になり、自分が塾のバイトに行くという所でこのテープは終わっている。

そして3本目のテープ。この頃は漫画「嗚呼!!花の応援団」にはまっているらしく、あちこちに「がび~ん」だとか「ちゃんわちょんわ」、「クェックェックェッ」なんてそれらしい言葉が飛び交っている。O江君は東大の大学院が落ちて東工大の結果待ちだが絶望的だと語っている。自分は、大学院は落ちたが、神奈川県の教員試験の一次が通ったと話している。この日は9月15日の敬老の日。ちょうどこの時のごいさんは教育実習真っ最中で、女の子にけっこうもてていたらしい。自分が友だちにそんな自慢話をするなんて珍しい。こんな時もあったんだ。(続く)

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テーネンジャー、屋形船に乗る

一昨日の土曜日に久しぶりにテーネンジャー8のメンバーで屋形船ツアーに行ってきた。前にも紹介したがこのテーネンジャー8というのは同じ職場で一緒に定年を迎えた8人の仲間で作った会である。本来は7月に行う予定だったのだが、幹事のごいさんが気づくのが遅れて、9月に延ばしてもらったという経緯がある。今回はみんなの交通の便を第一に考えて品川の「平井」という船宿に申し込むことにした。

さて屋形船ということで天候は気になるところだ。もちろん屋根があるから雨天決行なのだが、それでも雨が降れば面白さは激減してしまう。ということで週末のお天気を気にしていたのだが、どうやら天気は回復するとのこと。東京湾の美しい夜景を眺めることができればほぼ成功と言えるだろうから、これでまずは一安心と言ったところだ。

みんなとは品川駅で待ち合わせたが、ごいさんが行くとすでに全員が集合していた。みんなさすがに先生をやっていただけのことはあると改めて思う。こういうのは本当にスカッとしたいい気分になるものだ。それだけみんなの期待度も大きいということだと思った。あとは屋形船の雰囲気やお料理が彼らを満足させてくれるように願うだけ。

待合所で待っていると、他に数人の大学生らしきグループと若いカップルが4組ほど集まってきた。どうやら今日のお客さんはこれだけのようだ。船の大きさからいって50人前後は乗れるだろうから実にゆったりしたものだ。飲み物のお替りも頼みやすいし何と言っても動き易い。案の定、右に左にと移動してはパチパチと写真撮影を始めるお爺ちゃんたち。自分もだけどね。若いカップルたちには邪魔な存在だったかも。

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お台場周辺で40分ほど停泊するのだが、その間は屋根の上の展望デッキで周りを眺めることができる。レインボーブリッジやフジテレビの建物、自由の女神が見える。予想通り美しい眺めだ。船内に戻れば揚げたての天ぷらが次々と出され、お酒を飲む勢いも増す。それと意外に楽しめたのが、和服姿の若いお姉さんがマイクでいろいろ案内をしてくれるのだが、冗談も交えながらの話しぶりが実に上手いこと。このお姉さんの存在はとても大きかった。

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お台場で40分余りを過ごすと再びエンジンがかかり隅田川を上り始める。両側ガラス張りの船内からは外の夜景が綺麗に見える。やがて清洲橋の向こうにスカイツリーが見えてきた。今回の屋形船はここでUターン。こうして2時間半は大盛り上がりのうちに過ぎた。久しぶりだからもっと話もしたかったがこれだけ盛り上がれば幹事としても大満足。

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現役の時はそれほどに話もしなかった。ただ退職が一緒だけという縁で結ばれたメンバーなのだが、何故か会うたびに絆が強くなっていくのを感じている。同じ時代を生きてきた同志ということからか。それほどには相手のことを知らない。追及もしない。その程度の関係が過度の期待を持たせないというのがいいのかもしれない。さて次は忘年会だね。

 

「品川駅山手線ホームにある記念プレート」 

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笑う猫とゴマちゃん

一昨日、母に呑兵衛旅行で買ってきたお土産の「笑う猫」を届けに行ってきた。新しい電池を入れて、母に「猫のお尻を触ってみな」と促す。恐る恐ると差し出した手でちょんと突っつくと、途端に猫がけたたましく笑い出した。猫の鳴き声じゃない。ギャハハハハハと人間の笑い方だ。それもしっぽを軸にもんどり打って笑っている。その笑い声の勢いにつられて母も思わず笑いながら「何、これ」を連発している。自分もそうだが皆さんにもあると思うけどあの胸の苦しくなるぐらいの笑い方だ。仰向けになって笑っている様はまるでひきつけを起こしているかのよう。何が可笑しいのかなんてどうでもよくて、ただそれを見ているだけでこちらも可笑しさが込み上げてくる。

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今日は下の子供から預かったお土産も持ってきた。先日に夏季休暇が取れて北海道を旅してきたという。お土産は旭川動物園で買ったアザラシのぬいぐるみだった。昔流行ったあのゴマちゃんみたいだ。こちらは間違いなく本物で触り心地がとてもいい。母は大事そうに抱えて今晩から一緒に寝るよと嬉しそうに言っていた。下の子は小学校に上がるまでは何かと母親の世話になっていたから、母もその子からこうしてお土産をもらうのは相当に嬉しいのだと思う。

似たような土産になってしまったけど、違うタイプだし母もそれぞれに喜んでくれたみたいで良かった。その後は二つを並べては眺めたりゴマちゃんを抱いたり猫を笑わせたりと忙しそうだった。そんな母の姿はまるで子供のように見えた。いい年のとり方って案外子供のようになっていくことなのかもしれない。母の笑っている顔には欲というものが感じられず、ただ純粋に生きていることだけを楽しんでいるようだ。その様子が毎日毎日を無邪気に遊んでいた子供の頃と同じように思えたのだ。

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このところの母は少し年を取ったような気がする。毎日1時間歩いていたのが30分になったりテレビを観る時間もかなり増えたりと、行動範囲も狭まった感じだ。しょうがないこととはいえちょっと寂しい。友人の母親の多くはすでに他界していたり施設に入院していたりする。それに比べて自分はまだ母に甘えている。母の健在のおかげであちこちにも出かけられるし好きなことができる。そのことは決して忘れてはいない。でもあと少しの間だけ。やり残しを終えたらしっかり親孝行するからさ。