父の日と父の命日

今月24日は父の42回目の命日だった。父が亡くなった時、涙が溢れてきて長い時間止まらなかった。それがどうしてだったのか今でもその時の気持ちは分からないままだ。その頃の自分は父親の存在なんて気にもしていなかった。それがしばらくの間は何度も夢の中に登場した。帰ってきた父を見てお帰りなさいと言っている自分。夢が現実と思えるほどに鮮明で、父が死んだとはなかなか思えなかった。

年を取るごとに、心の中で父の存在が大きくなっているのを感じている。子どもの頃の自分を父はいったいどんな思いで見ていたのか。自分の子供たちと接するたびに、そんなことをよく考える。稼いだ金はすぐに使ってしまうし酒を飲んで暴れることもたびたびだった。自分にとっても家族にとっても決していい父ではなかったし、父親自身も嫌われていることを承知していた。そんな父はその頃どんな思いでいたのだろう。

それがある時から突然本を読むようになった。尋常小学校しか出ていなくて本を読むのは簡単なことではなかったはずだ。確か推理小説の類だったように記憶しているが、その読む頻度はかなりのものだった。突然の変化に少し驚いたけれどどうしてと問うことはしなかった。それまでの自分を変えたかったのかと考えたりもするけど本当のところはまるで分らない。

子供の頃の父は強くてただただ怖い存在だった。簡単に口をきくこともできない。でも今父をはるかに超える長い人生を歩いてきて、父は本当に強かったのか、そんな疑問を抱いている。残された写真に写っている父の笑顔にその怖さは微塵もない。遊園地に何度も連れて行ってもらい、たまには食堂でご馳走を食べた。その時の父はどんな気持ちで子供の頃の自分を見ていたのだろうと思う。

この前の父の日に上の子からプレゼントが届いた。きっとお嫁さんが気を遣ってくれたのだろうけれど、ありがたいと思う。今の自分はやりたいこともやって父に比べて十分過ぎるほどに幸せだ。自分は一度もそんなことを父にしなかった。家を買ってすぐの半年後に父は何も語らずに逝ってしまった。それから42年、父はどれくらい幸せを感じていたのか、ずっと考えている。

だから思うのだ。自分の気持ちはちゃんと子供たちに伝えておきたいと。このブログを始めたのもそれが一つの目的だ。でもやっぱり直接話しておきたいって最近思う。昔のホームドラマの会話のように近くの居酒屋で一杯飲みながら……なんてね。昔、子供から言われたことがあるんだ。「酔っている時の父さんが一番いい。」って。だから誘えばきっとつき合ってくれる……かな。

6月の父の命日は父としての自分のあり方を振り返る日でもある。もう子供たちは十分に大きくて、父親としての存在価値はだいぶ小さくなっただろうけれど、でも生きている限りは頼られる父親でありたいと思うのだ。さてさて、一緒に酒を飲む時にどんな話をしようかな。

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ワールドカップ・ロシア大会始まる

待ちに待ったワールドカップが開幕した。そしていきなりのスペインとポルトガルの一戦に酔う。ラストのあのロナウドフリーキックは正に芸術的だった。あそこで決められるという精神力が凄い。他にも優勝候補のドイツがメキシコに敗れ、ブラジルもスイスと引分け、アルゼンチンもメッシがPKを外して勝ちを逃すなど、どの試合も迫力のある凄い戦いになっている。昔のように毎日朝方までというわけにはいかないけどついつい見てしまう。

さて日本の試合も迫ってきた。直前になっての監督交代で落ち着きを失った感じのオールジャパン。自分もハリルの戦術に不満がなかったわけじゃないけど、正直この時期の監督交代はどうなのか。しかもその理由も今一つ。西野監督に代わってどう変わるのか、変われるのか見当もつかない。その後の強化試合を見ていても点が取れる気がしない。

本田、岡崎、香川と代表から外れていたメンバーが戻ってきたが今さらという感じがする。残念ながら本田にはもう南アフリカの時のような勢いはない。プレー自体が遅く彼の所で流れが止まってしまう。それがハリルの戦術にも合わなかったのだと思う。怪我で実践から遠ざかっていた岡崎や香川を使うのもどうか。ただ最後の強化試合となったパラグァイ戦で、香川に昔のような切れのある動きが見られたのが若干の光明と思いたい。

サッカー関係のいろんな記事を見ても日本の予選リーグ突破は難しいと書いてある。FIFAランキングから見てポーランド、コロンビア、セネガルの三つ巴の勝負で、結局は日本戦での勝ち方が予選突破の鍵だろうということだ。となればどのチームも日本には全力で向かってくる。しかもそれぞれに個人技に優れるスーパースターを擁しているから相当に厳しい戦いになる。

力はすべて相手が上。横パスばかりを通してもたもたしていたらかっさらわれて失点するか、そうでなくても得点するチャンスは作れない。相手に先制を許せば逆転は不可能に近い。そんな中でごいさんの期待している一押しの選手は柴崎だ。前がかりになってくる相手の隙を突いて大迫、乾、原口あたりにうまい縦パスが出せれば得点することも十分可能だと思う。逆に先制点を挙げることができれば相手の焦りを誘い勝利することも決して夢ではない。

リオから4年。ハリルの解任で今の日本にはこれといった戦術があるようには思えない。旧態然としたパス回しでは突破口は開けないのは明らかだ。ハリルも言っていたがチャンスと見たら少しでも早く相手ゴールに向かう。それと大迫、乾、原口、香川と言ったオフェンスの選手は積極的に相手ディフェンダーに挑んでほしい。相手を一人かわせば得点チャンスも増える。そしてシュートを打つ。シュートを打たなければ点は入らない。

劣勢な中にも必ず何度かのチャンスはやってくる。しっかり守りながら先制点をもぎ取ることが勝ち点を挙げる唯一の方法だ。間もなく始まるコロンビア戦、何としてでも勝ち点を取りに行く。ここまで来たらやるしかない。頑張れニッポン!

 

誕生日にクラスの子たちから贈られた寄書き入りのサッカーボール。この頃はまだ現役の選手だった。f:id:goisan:20180619164150j:plain

 

パパの入院

先日パパが入院した。この「パパ」とは妹の旦那さんのこと。いつ頃からかはっきりしないけど妹がパパと言っているのを何度も聞いているうちにそれが自分にとっても彼の代名詞になってしまった。そのパパが入院して手術を受けることになった。5月25日金曜日の朝に妹から電話がかかってきた。めったにかかってこない電話だけに初めは母に何か起きたのかと思ったのだが、実はパパが昨夜から激しい痛みを訴えて救急車で運ばれ入院したという。

パパが入院するのは今度で4回目になる。入院してすぐに見舞いに行った時は、けっこうショックなようでだいぶ落ち込んでいた。自分の不甲斐なさを嘆いていた。こればかりはしょうがないよと慰めるのだがなかなか元気にならない。それでも2日ほどおいて2回目のお見舞いに行った時は、だいぶ落ち着いたようで顔色も良くなっていて安心した。

普通ならすぐにでも手術なのだろうけれど、パパは10年ほど前に心筋梗塞の恐れがあって心臓の血管を広げるという手術をやった。それからずっと血液を固めないための薬を飲んでいるのだが、その関係で1週間ほど様子を見てから手術になるという。そいうことで手術が行なわれたのは1週間後の6月1日だった。手術そのものは簡単で短時間で無事に終わり、その後の痛みもないようだった。

手術後の帰りに妹がお昼をおごるから食べて行けという。食べたいのを決めて頼もうとすると「遠慮しないでもっと高いのにしろ。」という。そんな会話をしていると妹がどれくらい喜んでいるかがよく分かる。それは妹がどれだけ不安で緊張していたかという証しなのだと思った。妹は結婚と同時に会社を辞めて専業主婦となった。働いてばかりの母親を見ていてそれは妹の憧れだったに違いない。そしてそれからはずっとパパに頼ってきた人生だったから。

少しだけ昔を振り返ると、実はパパとは結婚式当日まで会っていない。憎んでいたとは大げさだが多分に彼のことを嫌っていた。結婚して妹を連れ去ってしまうそんな思いと、家に来ては父親と楽しそうに酒を飲んでいるのが気に入らなかった。それが初めての孫ができる直前に父が亡くなり自分がその代わりを果たすことになって、いつまでも子供のような気持ちではいられなくなった。

いざ彼と話をしてみると、お互いに打ち解けるのは実にあっけなかった。それからは父に代わって二人でよく酒を飲むようになった。同い年だから話もよく合った。パパはごいさんのことをあんちゃんと呼ぶ。それは妹が小さい頃からずっとそう呼んでいるから。では自分はどう呼べばいいのか。そこで妹の言いようを真似してパパと呼ぶようになったのだと思う。

パパは妹のために一生懸命に働いてきた。「自分には働くしか能がないから」と言うけど、そんなことはない。会社では、上司からも部下からも信頼され人気もある。自分もずいぶんと助けられてきた。傍にいるだけで安心できる、そんな素晴らしい人間性の持ち主なのだ。そんなパパを見つけて一緒に歩んできた妹は、だからずっと幸せだった。

6月11日月曜日、パパは元気に退院した。

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さくらんぼマラソン

3日の日曜日に山形の東根で行われた「さくらんぼマラソン大会」に参加してきた。また出かけたのかって思うよね。でも今回この大会に参加した目的は、昨年のニューヨークマラソンで知り合ったS井さんと再会することだった。連絡を取ったら一緒に走ろうということになったのだけど、大会が近づいてきてこの日は仕事で横浜まで出かけることになったという。

そんなわけで再会は先延ばしとなってしまったが、評判の高いこの大会を一度は走ってみたいということで出かけてきたのだ。山形駅5時53分発の電車に乗って、会場の自衛隊駐屯地には7時前に到着した。すでに真っ青な空に太陽が煌々と輝いている。どうやら相当に暑くなりそう。それでも今日はハーフ。多少気は楽だ。f:id:goisan:20180603065930j:plain

ハーフの参加者は6,000人ほどで、ごいさんはA~GのEブロックでのスタート。ゲストには、瀬古さん、金さん、千葉真子さん、荻原次晴さんと豪華な顔ぶれ。露店もたくさんあって、会場は盛大に盛り上がっている。そんな中、8時50分にスタートの号砲が鳴る。この時の気温は22度ぐらいだったろうか。そしてゴールする頃には27~8度ぐらい。カンカン照りということもあって体感温度は30℃を超えている感じだった。f:id:goisan:20180603083555j:plain

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スタートして3キロぐらい走った頃だろうか、子供たちがずらっと並んでの応援が始まった。大きな声で声援をくれるたびにハイタッチをしては「ありがとう」を連呼する。これが延々と続く。それにたくさんの町の人たちも加わっての応援は本当に迫力があった。まさに町をあげての応援という感じだった。

さくらんぼ農園を回っている時も農家の方たちが顔を出してくれ、さくらんぼの差し入れもしてくれた。エイドの数も多く、スポンジはもちろん冷たいタオルまであった。お目当てのさくらんぼは5個だったけど、他にもリンゴジュースやゼリー、それにケーキにラッキョウといただいて、自分にしては珍しいくらいにエイドも楽しんだ。

さてコースの方はというと、前半の10キロまでが上り基調でそれから下りとなり最後にちょっと上ってフィニッシュを迎えるといった感じだ。暑くなることを考えて前半はキロ5分10秒前後と抑え気味。後半に入って下りを利用して一気にペースを上げる。最後までもつ自信はなかったがとりあえずトライだ。白い雪を残した遠くの山々が時々涼しさを運んでくれる。結局、前半を54分11秒、後半を52分20秒の合計1時間46分31秒でフィニッシュ。

うわさ通りの素晴らしい大会だった。役員の方やボランティアの皆さんはもちろん応援の人たちもみんなでこの大会を作っているんだというそんな熱い思いがひしひしと伝わってきた。自分としては後半も元気に走れて最後まで皆さんの声援に応えられたのが何より嬉しい。東根の皆さん、本当にありがとうございました。楽しかったです。

山形のS井さん、来年こそはぜひ一緒に走りましょうね。そしてはてブロランナーのもやしさん、ちょびさん、今度またどこかの大会でお会いしましょう。楽しみにしています。

 

帰りの新幹線までの時間を使って山寺(立石寺)を再訪。f:id:goisan:20180603143849j:plain

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奥州平泉(5月19日)

平泉を訪ねるのはこれで3回目になる。最初に来たのが大学の浪人時代で、仲間4人でやって来た。その時何を思ったかは忘れてしまったけれど、訪れたのが夏の暑い時で深い緑の景色だけが記憶に残っている。2度目は6年前の呑兵衛仲間達との旅行だった。ただこの時は時間があまりなくさらっと見ただけ。それで今回は改めてじっくり見て回ろうという気持ちでやってきた。

この日は今にも雨が落ちてきそうな曇り空で風も冷たく気温もだいぶ下がっていた。去年の暑いという印象から半袖のシャツしか持ってこなくて、この日に半袖を着ているのは自分ぐらいだった。そんな寒さにもめげずにレンタサイクルを借りたのだが、案の定、腕には鳥肌が立つ。寒いうえに他人の視線も気になってどうにもいたたまれない。

最初に向かったのは「柳之御所遺跡」。「吾妻鏡」に記されている「平泉館」という、いわゆる藤原氏が政治を行っていたという場所だ。池、掘立柱建物、井戸などの遺構や土器、陶磁器などの遺物が多数発見されている。目を閉じて耳を澄ますと、昔の人たちの活気のある声が聞こえてきたような。f:id:goisan:20180519110153j:plain

下の写真は、三代秀衡が平等院鳳凰堂を模して建立したという無量光院の跡。伽藍はすべて消滅してしまい、今はその面影を偲ぶのみだ。ちょうど東北本線の電車が来たところをパチリ。f:id:goisan:20180519113604j:plain

次に向かったところは「高館義経堂(たかだちぎけいどう)」という義経終焉の場所。頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡の奇襲によって自害、31歳という短い人生だった。この高館からの眺望は平泉随一と言われ、ここで芭蕉藤原氏の栄華や義経への思いを込めて「夏草や 兵共が 夢の跡」と詠んだ。f:id:goisan:20180519114827j:plain

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そして中尊寺。この地を治めることになった清衡は、敵味方関係なく戦で命を落とした人々の霊を弔うためにこの中尊寺を建立する。戦に嫌気がさした彼は、この平泉で争いのない平和な国を作ろうとした。そうしてその思いは二代基衡、三代秀衡が引き継がれ、100年に及んで藤原氏が栄えることになる。f:id:goisan:20180519122453j:plain

中尊寺にはたくさんのお堂があり、それぞれに様々な仏像が祭られている。一体一体の顔の表情やしぐさが違う。最近ではそういう仏像を見るのが楽しみだ。そしてそれらの一番奥にあるのが金色堂藤原氏が滅亡した後もずっと大切に守られ昔のままに輝いている金色堂を見た芭蕉は「五月雨の 降り残してや 光堂」という句を残す。f:id:goisan:20180519131637j:plain

最後は毛越寺。ところでこのお寺の名前、読むのが簡単ではない。初めは「モウ・オツ・ジ」だったそうだが、それが「モウ・ツ・ジ」になりそして「モウ・ツウ・ジ」になったのだという。この毛越寺は、二代基衡が作り始めて三代秀衡の時に完成する。「浄土庭園」といわれる広々とした庭園をのんびり歩くと自然と心が癒されてくる。f:id:goisan:20180519145827j:plain

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100年続いた藤原氏の栄華も、秀衡が亡くなるところから滅亡への道が始まる。秀衡は頼朝が攻撃してくることを心配して、「義経を主君として、頼朝の攻撃に備えよ。」と子どもの泰衡たちに遺言して没するのだが、その願いは叶わなかった。もしも自分が泰衡だったら、義経と共に頼朝と戦ったか、やっぱり義経を殺したか……難しい選択だ。

 

奥州きらめきマラソン、再挑戦

先日の日曜日に岩手県奥州市で行われた「奥州きらめきマラソン」を走ってきた。昨年はスタート時点ですでに24℃を超えゴールする時には30℃を超えていたという状況下で、30キロを過ぎたあたりから水を飲んではすぐに戻してしまうという熱中症状態になった。それからは、歩く、走る、止まる……の繰り返し。昨年は霞ケ浦でも同じように暑さにやられて惨敗していただけに、この大会では何としてでも4時間を切りたかった。その思いだけで足を動かしていた。

ゴールした時にこの大会はもう2度と走らないと思った。それが今年募集が始まってみるとどうにも昨年の悔しい思いが募ってくる。あれこれ悩んだ末にもう一度走ることを決めた。4月、5月のハーフのレースで調整する予定がいずれも思ったようなタイムを出せていない。これで気温が上がったらどうなるのだろう。そんな不安だらけの思いで当日を迎えたのだった。

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今年のスタート時刻は昨年より30分早くなっていた。空はカラッと晴れているが空気はひんやりとしている。太陽が煌々と輝いていて体感的に温度は上昇するだろうけれど、それでも条件は昨年よりはるかにいい。熱中症になることはきっとない。今回は昨年のタイムを切るのが目標ということで、30キロまでのそれぞれの10キロを52分から53分で走り最後の10キロを56分というプランを立ててみた。これでフィニッシュタイムは3時間48分前後という計算になる。

最初の1キロは5分14秒とまずまず。いくぶん速い流れに乗って予定のペースより速い。10キロ地点は51分22秒で通過。早くも足が重く感じるようになってきて不安が募るが、次の10キロを51分15秒と耐える。ここから先は日陰がなく太陽の光をまともに受ける感じになる。それでも沿道ではたくさんの人が応援してくれている。こちらの顔をしっかり見ては真剣に声をかけてくれるのが嬉しい。

30キロまでの10キロは52分40秒で予定をぎりぎりクリア。そして昨年一番苦しかった場所が近づいて来る。トラウマになっているのだろうか、無意識のうちに走れないムードになっている。足は動くのだが気持ちがもうだめだと言う。立ち止まる回数が自然と増えてくる。それでも最後の5キロはやっとのことで走り通した。この10キロは56分51秒。因みに昨年は62分かかっている。

途中で知り合った女性がごいさんを抜いていった。わき目も振らずに懸命に腕を振っていた。60歳台の彼女はどうしても入賞したいと言っていて、そしてその言葉通りに見事に上位入賞を果たした。その結果を見てごいさんもまだやれるだろうか、そんな思いを抱いたのだった。ごいさんのフィニッシュタイムは3時間44分03秒。どうにかリベンジを果たして少しだけ心が解放された……感じ。

最後になりましたが、沿道で応援してくれたたくさんの皆さま、そしてボランティアの皆さま、大会関係の皆さま、暑い中をお疲れさまでした。皆さま方の熱意が良く伝わってくる素晴らしい大会でした。本当にありがとうございました。

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「晩酌」の時のどうでもいいお話し

ごいさんはどうも大酒飲みの印象が強くて、友人からの旅のお土産や子供たちからの何かのお祝いだとたいがい日本酒、焼酎、ワインといったお酒が届く。確かに父に似て酒には強いと思う。友人と二人で日本酒二升とか焼酎のボトル3本とか半端じゃない飲み方をした時もあった。泊りの宴会で周りがバタバタと寝込んでいく時もたいがい最後までしぶとく飲んでいた。

でも実はごいさんは晩酌はほとんどしない。夏場でもせいぜい週2度、冬場だと一度も飲まない週もあるくらいだ。つまみは自分で作るのだがこれがけっこう時間がかかる。それなのに、飲むのはよほどでなければビールだから、グビグビっと飲んだらあっという間に飲み干してしまう。仲間の多くは毎日の晩酌を楽しんでいると言うが、だいたい何が楽しくてそんなに長い時間飲めるのかが分からない。

外で飲む時の楽しみはやはり友だちとの会話なのだと思う。話していればつまみは不要だ。餅つきの合いの手の如くうまい具合に酒が進むのだ。いやむしろ酒をつまみにして友と話すといった感じかな。ほどよく酔った感じでの友との語らいはまた一段と楽しい。少しだけ友だちの本音も聞けるし、ちょっとだけ本音も語れる。ごいさんにとって酒を飲むというのはそういうものなのだ。

晩酌をして一人で酔ってもたいして面白くない。酒が入った方が頭の回転が良くなるかと言えば、それは否だと思う。何かから逃げるために酒を飲むのはますます嫌なことだ。酔った頭で思いつくことなんてどうせ大したものじゃない。現役の時、外で飲むのも家で晩酌するのもほとんどが週末。酔った頭で生徒に対応できるほどごいさんの頭は優秀でも柔軟でもなかった。

さてここからが今日の本題。そんなごいさんが晩酌で飲むのは、一番搾りとのどごしの350mlの缶1本ずつ計2本なのだが、未だに悩んでいることがある。それは「どちらを先に飲むか」ということ。一番搾りを2本にすれば問題なしと一笑に付されるかもしれないが、今のごいさんの立場ではそれはちょっと贅沢な気がする。かと言ってのどごし2本じゃ寂しい。

どっちを先に飲んでも変わらないだろうというのが普通だと思うのだが、実はごいさんは丸々2本飲めなくて2本目の三分の一ぐらいを残す習性がある。じゃあ500ml1本にすれば量的にも問題なし、と考えて実際やってみたがやっぱり1本というのが寂しいのだ。そんなことで晩酌と言えばこの2本で定着している。

で、一番搾りを後から飲んで残すくらいなら先に飲むべきだというのが当然だろうけれど、ビール好きの方ならお分かりいただけると思うが、1本目は味わうこともなくあっという間に飲み干してしまうことが多い。これからの季節ならなおさらだ。それだと一番搾りを先に飲むのはもったいない感じがするのだ。そして順番を後に回せば、ゆっくり味わえたとしても三分の一を残すことになる。

鶏が先か、卵が先かみたいなもんで、たまにはどうでもいいことを懸命に考えてみるのも面白い。面倒くさくなって2本同時に開けて交互に飲んでみたこともあるんだけど。未だに結論は出ていない。

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